とであった。午砲《ドン》の鳴る頃、春桃は、いつもの通り屑籠を背負ってとある市場へ来かかった。突然入口で「春桃、春桃!」と呼びとめた者があった。春桃は、向高でさえ、年に何度としか呼ばないそういう呼び方で、誰が自分を呼ぶかと、おどろいた。振返って、春桃の愕《おどろ》きは、物も云えない動悸に高まった。破れた軍服を着て、云いようない軍帽を斜にかぶって、両脚のない乞食こそは、李茂なのであった。
春桃は人力車をやとって、李茂と屑籠とをのせた。そして、廂房のわが家へ帰った。李茂は、小ざっぱりとした廂房の内部と、春桃の生活につよい好奇心がある。
「お前とその劉《リウ》という人とは一緒にこの部屋に住んでいるのかい?」
「そうですよ。わたしたちは二人ともこの※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]《おんどる》の上で寝ます」春桃は少しもためらう風を見せなかった。
「じゃ、お前はその人に片附いたのかね?」
「そうじゃないんだよ。いっしょに暮しているだけのことだよ」
「じゃ、お前は今でもまだおれの女房というわけだね?」
「いいえ、わたしは誰の妻でもないんだよ」春桃のこころのうちには、うまく云い表せこそしないが、誰のものでもない春桃の感じがあるのであった。「李茂の夫権意識は激しく動いた。」
「そんなら、ひとがきっと生きている王八《ワンパ》(女房をとられた男)と笑うだろう」
「王八」ちょっとふくれた春桃は、しかしやはりおだやかに云った。「金もあり勢力もある人しか、王八になる心配はないんだよ」「今、わたしの体は、わたしのものだよ。わたしのすることが、あなたに恥をかかせることは決してない筈だよ」
李茂は、「一夜の夫妻は百日の情」というけれども、その百日はもう十以上も過ぎた。春桃は一人で住んで仕事を見つけ、手伝いに向高を見つけた。「情愛から云えば、むろん、李茂に対しての方がずっと薄い」春桃が李茂を連れて来たのは、親たちのつき合い仲間への義理や同郷のよしみからであった。「あんたがわたしを女房だと云っても、わたしは云いません」そして、春桃は泣いた。
「あんたが片輪だからって、にべない仕打ちは私に出来ない。ただわたしは、あの人をすてかねるんだよ。みんな一緒に暮して、誰が誰を食わしてやってるなんて考えないことにしたら、いいじゃありませんか?」
李茂と向高とは、春桃と三人で暮しはじめた。向高は、少し本を
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