超えて、なすべからざることをした心苦しさが、直接に彼の薄笑いで弛《ゆる》んだ魂を引っぱたくのである。正隆は、夫人にすまないとは思わなかった。が、子供等が持っている何物かに対して、痛々しかった。ほんとに、それは痛々しいことである。幸福な親子が、優しい中音と、飛ぶような声高を織りまぜて、睦まじく笑い合う声を聞きながら、膝を抱えて柱に倚り掛った正隆は、心《しん》から淋しい、どこにも慰安のない、天地から指をさされるような心持に、沈み込むのである。
 それほど、心が痛むなら、何故、最初の一度で正隆は、その呪うべき悪戯《いたずら》を止めなかったのか? 彼は、確かに子供達の、日のような明るさの前に愧《は》じているのだ。相済まないと思っているのだ。それにも拘らず、一度ならず同じ、恥辱に満ちた悪戯を繰返したのは、一言にいえば、彼の目的の移動であった。
 最初、尚子夫人を目標として、彼女のうちから胸の悪くなるような毒気を吹き出させようとして失敗した正隆は、いつか、子供等と自己との関係に於て、新に生じた心を攪乱するような感動に、我を忘れて没頭するようになって来たのである。
 その心持は決して、快いものではない。安穏な楽しさではない。苦甘い、重い、尖った、不思議な気分が、子供等の透徹した声によって湧き上る苦痛に混って、彼を酔わせるのである。
 そうすることは、子供達の、純白な頭に対して死にも価するだろうことを、正隆は勿論知っているのである。彼は自分で、自分の破廉恥に苦しみながら、その苦悩の底に澱む、愛に似た、痛痒い心持を、色褪めた舌で、嘗め尽そうとしたのである。

        十六

 子供達の魂に加えられる冒涜に堪えきれなくなった尚子夫人の、激しい、焔のような面責に、ビシビシと鞭うたれながら、なお正隆が、彼の悪戯を忘れかねているうちに、佐々の家には一つの事情が持ち上った。それは、丁度その夏、休暇で遊びに来た義一の末弟に当る青年が、来ると間もなく急に熱を出して、そのまま床に就いてしまったということなのである。
 思いがけない病人で、家中がぞよめき渡った。まして、尚子夫人は、二人の幼児を保護しながら、病人の世話をすることは、容易なことではない。が、それのみならず、たとい、義弟ではあるといっても、良人の留守中、彼女一人で、徹宵、この青年に附添うことは、不適当だと思った尚子夫人は、これといってなすこともない正隆に、代理を頼んだ。
 常識から考えて見ても、家庭の一員である以上、彼が尚子夫人を助けるのは、意外なことである筈がない。夫人の説明を聞いて、正隆は思わず、よろしい、と返事をした。一面からいえば、正隆の口から、その返答を自然に引き出したほど、それほど、夫人の理由《リーゾナブル》は至当だったともいえる。正隆は、その瞬間、常人に還って、彼女の申出を承諾したのである。
 けれども、自分の部屋に帰って、いつものように膝を抱きながら、考えるともなく、尚子夫人の言葉を思い出して考えていた正隆は、暫くすると、彼特有の薄笑いを口辺に浮べた。
 何心なく素直に、尚子夫人の申出を承知した正隆の心は、また、そろそろと軌道を転換して、蕈の生え並んだ彼の王国へ、軌り込み始めたのである。
 夕暮の騒音に混って、微かに唸る蚊を追いながら、燈もつけずに考えていた正隆は、やや暫くすると、
「フム」
と云いながら、体を揺った。
「尚子夫人は利口だ。なかなか抜目なく利口だ」
 これが、正隆の第一に考えたことである。
 彼女に対して、自分がどういう心持でいるか、それはまるで、住む宇宙が違うような尚子夫人に明瞭な説明は掴めないであろう。けれども、少くとも、彼女は、自分が、どんな傾向を持った人間であるかということだけは、透視しているのだ。
 自分の持つ色、あまり美くしくない混濁色、その色に纏まって立つ自分に若し、何か、批評の材料を与えれば、その批評は、直ちに、批評という域を踰《こ》えたものになり得べきことを、尚子夫人は見抜いて、それを未然に防ごうとするのだ、と正隆は考えを廻らしたのである。そう思うと、正隆は、尚子夫人の目前で、よろしい、といった時通りの気分ではいられなくなって来た。何かもっと拗《すね》た、濃厚な上気《のぼ》せたような好奇心とも、敵愾心とも区別のつきかねる気分が、彼のよろしいという返事を、片端しから、噛み潰し始めたのである。
 正隆は、それだけの用心を編み出した尚子夫人の心を想うと、思わず唇を引歪めた。不思議な心持である。平常は、何の注意も払われない、無干渉な存在ともいわるべき自分が、今は尚子夫人の最も顕かな目標となっているのだ。何の目標か、それは鮮明でない。用心の目標なのか、或はまた、助力を求めようとする目標なのか、正隆は、少くとも、彼女と、自分とが、僅かでも、同じ標準《レベル》に向い合った二つの焦点となったことに、いい知れぬ、喜びと、同時の有力を感ぜずにはいられないのである。
 尚子夫人の周囲に、今少くとも彼女を批評し得る位置にいるのは、自分だけである。小さい子供等と、無知な召使共と、それ等は、主婦としての彼女の権威で、自由に左右し得る者達ではあるまいか。そうすると、病人となった青年の義弟と、彼女と、自分とだけが、これから続こうとする何かの幕に、出現すべき三人の訳なのである。
 今、尚子夫人が、僅でも彼に注意を向けている場合、彼が忠実な、真実な助手となって、彼女を助け、感謝を受ける、という想像は、勿論正隆にとって、決して不愉快なものではない。彼は、美くしい人から、正しく注がれる感謝は、その感謝の中に含まれた愛は、どんなに芳しいものであるか、知っているのである。けれども、正隆は、その朝ぼらけのような気分のために、身を労することは出来なかった。それでは彼にとって、あまり淡すぎる総てである。ただ、労力を厭うとかいう問題を抜きにして、その心持を甘受出来ない、正隆の傾向は、尚子夫人と、青年との間に横わる、未発の機会が生む詭計《トリック》の、傍観者となろうと、決心したのである。
 決心などと呼ぶべき明かな決定さえ経ずに膝を抱えた正隆の魂は、自ずとその鈍色の薄暗がりにまで滑り込んで来たのである。
 勿論、正隆は、見識のある尚子夫人と、純朴な義弟との間に、何の感情的な拘泥もなかったことは知っている。今まで、或は、この先に凝と竦んで眼を光らせている、或る瞬間、までは、何でもないだろうことを知っているのだ。けれども、正隆は、若し、何の危険もないものとして、心の安定が絶対にまで保証されているのならば、何故尚子夫人は、自分に代理をさせようとするのか、という質問が、持ち出されて来るのである。
 夜中、親が子を看護するのに、誰が用心をするだろう。
 徹夜、姉が弟を守るのに、何の関心が払わるべきであろう。
 それだのに、義姉である尚子夫人が、自分に代理をさせようとするのだ。
 ここに至ると、正隆は、単純に総てを片づけることは出来なくなる。
 人間の魂のうちにある感傷《センチメンタル》と、浪漫的《ロマンテック》とが、或る瞬間の機会《チャンス》と、火花を散らして結合した場合、或は起るかも知れない危険を、賢い尚子夫人は、知っていないとは、思われないのである。
 夫人は、その運命的な瞬間を、避けているのではないか。
 そう思うと、正隆は、この瞬間の生ずべき、せめて空間でもを与えたいという、慾望に駆られるのである。
 けれども、この慾望は、決して快いものではなかった。
 傍観する自分の眼前で、その恐ろしい、息を潜めるような瞬間が実現せられたら、目撃者である自分は、どうしたらよいのか。その、ただ刹那の蹉跌が、家庭にどれほどの不幸を齎すか、そしてまた、その総ての悲惨の第一の原因たる機会を、故意に構えてその綱を引いた自分は、どれほどの責任を負わなければならないのか。
 それ等のことを思うと、正隆は、裏切者の負わされる重荷を魂に、どっしりと感じずにはいられない。そんなことはないように、そんなことが起らないように――。
 然し、それなら、彼女に代って、青年の傍に引添うかといえば、正隆は、矢張り否と首を振らずにはいられないのである。
 貞淑に見える、素晴らしい尚子夫人の上に起る、悲しみへの転機を事実として差附けられることは、正隆にとってあまり恐ろしい。けれども、堕天女としての尚子夫人を空想に描く時、正隆の感情は、奇怪な顫動を感ぜずにはいられないのである。
 女性の真実を、多く、幾度となく破滅させた瞬間の忘我、その切迫と、予期とに、あの、丸らかな夫人が、胸をときめかすのを見たいのである。
 どうだ!
 正隆は、訳の分らない亢奮で顫えた。
 畸形な歓楽である。
 圧殺された愛、未練、復讐の快さ、寂寥、損傷の――ああこの心持!
 正隆は、歯をがつがつと戦《ふる》わせながら、足音を忍ばせて、家を抜け出したのである。



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月7日公開
2003年7月13日修正
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