子で、
「正隆」
と、息子の名を呼んだのである。
 正隆は、思わず顔を上げて、母未亡人を見た。彼の、その予測し難いものに出逢った困惑で、何時になくたじろいだような表情を、きっかりと押えるように、未亡人は、
「正隆、お前も、これから漸く人になる、今日は大切な日です。だから私も、心ばかりの御餞別《おはなむけ》をして上げたいと思うのだが、お前は聞く気がおありかえ」
「お母さん――」
「はい。――私が是非云って置きたいと思うのはね、ほかでもないが、お前が世間知らずだから、他人《ひと》との懸引をやり損っては大変だということなのですよ」
 こんな前提を置いてから、未亡人は、小一時間も、彼女の信ずる処世術ともいうべきもの、それは唯一の方法で、最も完全なものだと思われる処世術に就て、正隆を諭した。
 愛されて育ったものが、総てそうであるように、他人の悪意を看破するに遅い彼は、若年でありながらよい位置に就き得た後援者の力、その力が齎す、嫉妬、反感、羨望等という人間の弱点を、巧く切り抜けなければならないということ、また、他人が利己的に他人を陥れようとして使う奸策の種々な種類と、対抗策。それ等を、未亡人は、
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