りつかつかと近寄って来て、親しく彼の肩を叩きながら、先ず、
「どうですね」
とお定りの口を切った。が、今日は、それだけで終りはしなかった。副島氏は、全く思いがけず、正隆を夜の食事に誘ったのである。
副島氏の言葉によれば、夫人も、彼には逢いたがっているのだそうだ。瞬間、返事に窮すような気分を感じながら、それでも正隆は、明に嬉しかった。
美貌で評判の高い副島夫人が、自分を顧みてくれたということが、正隆の、久しく封じられていた遊戯《いたずら》心を擽る。彼は、その時ばかりは、皮肉さの微塵もない微笑で、承諾した。
長い、退屈な、単調な田舎の生活に飽き尽した正隆の心は、表情の豊かな夫人の美と、抑揚に張りのある、丸い、転る東京弁に慰められて、想像以上に活気づいた。
罪のない饒舌で坐を賑わす夫人と、何時の間にか、一寸した冗談を云い合うほど、彼はいい心持に有頂天になった。厭な、蒼い、捻れた正隆は影を潜めて、快活な、贅沢な、遊び好きな若者が入れ換った。容貌に於て、比較にならない副島氏が、思わず夫人の顔を眺めたほど、それほど正隆は幸福であったのである。
若し、そのままで、副島氏の家を辞することさえ
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