独逸語を、美くしい声で読み上げたまま、後はもうかまわない。席順に、一人宛、一節の教科書を輪読させて、間違おうが、支《つか》えようが、彼は注意をしようともしなかった。凝と机に頬杖を突いて眼を伏せた正隆は、頭の先から、細い爪先までを満たした、何ともいえない焦躁と、淋しさと、棄鉢《すてばち》とに身も心も溺らせて、殆ど忘我に近い憂鬱に沈み込んでいるのである。
けれども、こんな正隆の態度は、決して学生達を、長く鎮めてはいなかった。
三箇月も経たないうちに、正隆は、学生中の嫌われ者になり終せた。
たださえ彼の曖昧な、尊大振った、弱々しさに何かの物足りなさを抱いていた少年、或は青年達は、彼の不真実な挙動を見ると、もう黙ってはいない。彼の無能を罵る声や、彼の不熱心を訴える声が、教員室まで侵入して行き始めたのである。
そうなると、同僚の多くは、問題の主人公たる正隆に対して、何か不自然な、敬遠とも、嫌厭ともつかない表情で、相対するようにならずにはいない。
学生と同僚との、不安定な観察を身に感じる正隆は、心の中で、総ての人間共を侮蔑し、罵倒しながら、表面は平然と、蒼白い頬に冷笑的な薄笑いの皺を刻み
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