れない正隆は、全く、自分の心の遣場所を持っていなかったのである。
 青年が、生活の第一歩を踏み出そうとして、一滴は、必ずこぼすだろう涙。
 その記録すべき深い、静かな、祈願と、憧憬と、漠然と直覚する失望に似た感じが、正隆の場合では、ただ、感傷的に傾き過ぎていた。正隆は自分で、自分の魂、生活を御して行けなかった。周囲の他力に、彼は支配される。自分の心を掘抜くことも出来ず、人の心は、まして燃え抜かせるだけの力を持たない正隆は、胸に満ちる海潮のような感情を、湧くにつれて、後から後からと澱ませて行ったのである。
 澱ませられながら、容積を増す感情は、どうにか流動しようと身をもがく、その最も自然の結果として、正隆は、自分の身辺に存在する唯一の弱者である学生に、その感情の、甘饐《あます》えた、胸のむかつく沈澱を、浴せかけたのである。
 それにしても、正隆は決して学生を、真正面から叱責したり、急しい課題の続出で、困らせたりする種類の意地悪さを持ってはいなかった。
 彼は、自暴自棄になったのである。
 今までは、相当に緊張して立った教壇の上に、正隆はもう、木偶《でく》のように押据った。そして、義務的に
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