った。
つい先頃まで、彼の記録する一点の差にも、大勢の学生達を悦ばせ、また落胆させた教授という位置に、今、換って自分が立つのだ、という想像は、思わず正隆の肩を竦めさせる。
彼は授業の方針とか、理想とかいうことで、頭を悩ます種類の人間ではなかった。
生来、虚弱な健康に宜しいというので、野天に晒されることの多い農科に籍を置いた正隆には、地味な研究に没頭するよりも、多勢の青年を前に並べて、得意の独逸語を、美しい発音で喋ることの方が、遙に大きな快感であったのである。まして、危く一二点の差で、及、落の決定するような学生が、私《ひそか》に教師を訪問して、寛大な採点を哀願するような場合を、自分の身近に置いて見ると、正隆は、或る亢奮を感じて、優者を自負する快い微笑が、幻のように、彼の蒼白い頬に上るのである。
そんな時、彼は、正、不正で、行動の是非を判別する気分にはなっていなかった。
ただ、当人には飽くまで、厳格な審判者として面しながら、いざという実際の場合に、相当の斟酌をしてやる、師らしい態度に自分を仮想して、我知らず幸福になる。正隆の好きな、仄温い人息れが、ほんのりと心を包むのである。
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