を、或は一種の病的《ハルシネーション》な幻想だったかも知れないと、彼自らに思わせていたものは、正隆の生活に与えられた、新たな幸福の力であった。
強調された現在の色調に、知らず知らず過去を薄めていた彼は、今、その頼む現在の破滅によって、俄に、過去を筒抜けに見るようになって来た。遠のいて、ぼんやりとしていた思い出が、一時にカッと鮮明な力強いものになって彼の面前に迫って来る。そして、あの時と、今との連続となっている僅か二三年間の光明は、却ってそれが明るいために、余計、左右の闇を濃くすることにほか役立たないのである。
感情に激した正隆は、大きな打撃を受けた瞬間から、あらゆる冷静さ、実際的方針というべきものを失ってしまった。
役所は、ひどい、不正である。自分のすべき仕事と、繋ぐべき希望は、もうない、なくなってしまった。と思うと直ぐ、辞職願を書いて突き出した正隆は、自分に与えられた苦痛を、ただありのまま、そのままに受取って全身で苦しんだ。その苦しみは大きい。深い。そして、魂の根にまで毒を注射するものであったろう。けれども、正隆は、それほどの苦痛に、解剖のただ一刀をも加えなかった。
自分は苦しい。何故苦しいのか、彼等が不正だからなのではないか、彼等の不公平が自分を虐げるから、自分は辛いのではないか、この点から更に一歩を進めて、それならば、彼等の不公平と、不正とはどんな原因と、内容を持っているだろうというところまで、彼の思索を進める力を、彼は生れながらにして持っていなかったのである。
それ故、この場合、正隆にとって、母よりも、妻よりも、よき一人の友が生活の活力素になる筈であった。一人のよい友人が、彼の総ての経験と、周囲の不幸な誤謬とを、些細に解剖し、解体して、あらゆる不幸な偶然を取りのけた運命の大系を暗示しさえすれば、正隆はどうにか、生活の明るみの上に息を吐けたかも知れなかったのである。然し、どこにもそんな友人は見つからなかった。平常から、群を離れて強者のようにふるまう正隆は、自分の馬鹿を披瀝する者を持たなかった。人間がどこかに持つ共通の馬鹿を、いたわり合う人を持たなかった。従って、多くの同僚は、その翌日出された辞職届のことを知って、彼の物質的安定と、そのために許される我儘とを羨望したに止まっていた。或る者は、正隆の所謂お坊ちゃんを、世にも比類のない仕合わせとして、彼を祝福さえしたのである。
この物質的に、彼があまり安穏であったということは、一面に正隆の身を自由に解放していると共に、他の一面では、彼をただ瞬間の激情に己を委せる弱者にしていた。
若し、正隆が、役所から離れるということが、何等かの点で生活の不安を齎すものであったら、これほど、彼は無反省で、或る環境から自分を引離すことは出来ないだろう。出来なければ、従って、何等かの思考が費される。そこで彼は、自分の苦痛、その苦痛を齎した原因、等に就て、何か掴むことが出来たかも知れない。けれども、役所で受ける俸給などというものは、生活の大道に何の差も起さない境遇にある正隆は、単に役所を雑作なく罷《や》めたということと共に、同様の無省察で、自分の疑惑を肯定したことに、一層の不幸を持っているのである。
彼の追憶は、それが追憶であるという事実に於て、多分の想像が加えられるのを免れない。現実の苦痛は、その結果のみを握って、原因を手の届かない彼方に置いているという点に於て、また、多くの推測と仮想とを含まずにはいられない。総てのことがただ抽象化されて、その抽象を左右する傾向が、ただ、正隆の気質にのみ動かされることは、結果として、正隆の求め得る結論以外のものは出て来よう筈がない。
自分の正直な、真実な仕事が、劣等な疑と不公平な判断によって、現に、拒絶されたという事実は、翻って、妄想かも知れないと思いかけていた過去の、K県での経験までを、疑い得ない事実として、正隆を首肯させた。そうなると、彼の最初の踏み出しから、今日まで、正隆は、ただ不正の、悪策の的となっていたようなものなのではあるまいか。
悪計を運用する台として、或る処へ運び出されたようなものである。その運び出す餌として、自分は、僅かな、然し力強い幸福を覗せられた。幸福を厭う人間が、この世に独りでもいるだろうか? 皆は幸福を求める。その皆の求めるものを自分が求めて、釣り出されたことは、自分としては自然である。が、相手にとって、自然であることを、係蹄に使うのは、或る警戒を与える策略よりも、数等卑劣である。正隆は、彼にとって、全くの不幸であった、人々の無責任によって、止途もなく疑の底に滑り込んだのである。
彼は、先ずK県に於て、その発端を現した不吉を呪うべき運命が、着々とその確実な計画を遂行して、今日、第二段落の成功を納めたのだとほか思われなか
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