った。
等しく、それを自分が自分の心に経験したという点で、K県のことと、今度のこととは、正隆にとって、幻想と事実との差を持たなくなって来た。まして、静かに、魂を鎮めて、人間の一生を貫く、運命の方向と、その運命の大道に折々現れて来る不幸な錯誤、機会というものの不思議な影響などを考えることは出来なかった。正隆の見越す運命の終極は、恐るべきものであった。
自分の性格のうちにある力の欠乏を知らず、また他人のうちにある同種の不完全さも思わない正隆は、全く日の目もない未来を予想して、そこに導こうとする運命、明かに、自分を嫉視する者共の手で繰られる運命を呪咀することほか知らなかったのである。
斯様な正隆を取囲んで、最初、彼の真価を誤った人々は、勿論、没交渉であった。自分等の不真実を謝して、気の毒な彼を慰めようなどと思う細胞は、大きな頭の一隅にも持ってはいない。
たとい、それほどの悪意はなかったにしろ、彼等によって、突転がされた正隆を受取って、母未亡人は、失望にがっかりとしながら、手のつけようも知らなかった。
再度の失敗で、ひどく目算を破られたような口惜しさを感じながら、強いても、唯一の避難所である脳病に正隆を圧し込めた母未亡人は、正隆にとっては、何の慰めにもならない、身の辺りの手落ちない注意で、温めようとした。
その様子を、静かに眺めながら、美くしい信子夫人は、良人の受けた疑いに、或る恥辱を感じると同時に、価値の見えざる下落を感じずにはいられなかったのである。
信子夫人にとって、良人は尊敬すべきものであった。その良人が、何か厭わしい嫌疑を受けたということは、彼女の誇りを、むっとさせることである。栄達の見込みが確実らしく見えていた良人の、俄の失墜、顛落しつつ、男らしくもなくもがき叫びながら、ただ徒に、焦る彼を見ると、信子夫人は、最初に懸けられた疑を、確かりと否定することさえ、曖昧なものに思われて来たのである。
良人を全部、信じ、肯定しきれない信子夫人は、心の中では、幸福な姉達の生活を比較しながら、あでやかな眉を顰めて、憐れな良人を眺めたのである。
総ては、どこにも捌《は》け口のない濁流の渾沌さで彼の周囲に渦巻いた。
正隆は自分の苦悶を、肯定してくれる者もなければ、また力強く否定して、鞭撻しようとしてくれる者もないのを発見した。妻も、母も、遠く、或は近いといっても、或る一定の距離を隔てて面する以上決して、より接近し、しっかりと魂の奥まで掴んでくれようとはしない。不思議に、遣場のない不安、呪咀。当のない力の焦躁。行き処がない、行き処がない……
正隆は、憤りにまかせて、フム! やって見ろ! と叫ぶだろう。けれども、それは決してその瞬間の、心そのものの空虚を満すものではなかった。相変らず、淑やかな、温順な、動じない妻。正隆や、正隆や、と云う母。然し、二人は、何の力も加えてはくれないのだ。彼女等の、相変らずの柔かさ、ほの温かさが正隆を、一層苦しませる。彼は、自分と共に若し信子も怒鳴って、狂《あ》れて、呪咀すべき運命、人間、に拳を振ってくれたらば! と、思う。それでなかったら、何か、火のような言葉で、自分をハッとさせてくれさえしたら! と希う。希う。ほんとに希う。が、出来ない。
信子夫人は、良人として与えられた異性に、ただ従順に、貞淑に、美くしい身嗜みで心を和らげる妻として育てられて来た。彼女の予想した夫は、多大な名誉と希望とをもって、華やかに彼女を引立てる筈のものであった。総てはちがって来た。信子夫人は勿論そう思わずにはいられなかった。正隆も勿論、そう思う。正隆は、運命の顔を見そこなった自分、見そこなうような運命の詭計《トリック》に一生足を攫《さら》われなければならない自分を見出して、総ては違っていたのだ、と思わずにはいられないのである。
自分は母に愛された。よい天分を与えられて生れた。それにも拘らず、いざ、その力を使ってほんとの幸福を掴もうとする段になって、何故自分は、これほど、他人の嫉妬に苦しめられなければならないのだろう。
暗い運命が、一生自分を覆うと知って、何故自分に何かの力を授けてくれたのだ、
何故、人並に幸福らしい、生活の一片を投げてくれたのだ?
自分を、富ませ、美くしい信子と、愛すべき正房とを与えて置きながら、どうして、そんなに、足を掬《すく》って倒すのだ?
信子は、信子によって新しくされた生活の総ては、それなら、それなら、今の苦痛を一層深く、堪え難いものとして味わせるために、与えられた餌食だったのだろうか? そうなのか、ほんとに。そうなのか、若しそうだとすれば――。
正隆は、額に膏汗をかいて吼った。若しそうだとすれば、信子さえ、この麗しい信子さえ、見えざる無数の敵の間牒だと、いわなければならないのだろ
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