定な動揺を感じずにはいられない。その動揺の、落付こうとする方向を、いかなる形式に於ても暗示するヒントが、やがて、その「意外」の種類を決定するものなのではないだろうか。
 この場合では、正隆に対する徳義上の疑問が、落付きを与える一つの重しとなったのである。即ち、外国語には通じている正隆が、不完全な日本文の弱点を補うために、彼の長兄である正則の助力を仰いで置きながら、それをそのまま知らん顔で提出したのではあるまいか、というのである。
 勿論、それはありそうなことで、ないとはいえなかった。正則は、素人でこそあれ、漢詩をよく作ることで、一部には著名であった。その兄を持つ正隆が、若し彼を強請《せび》って書かせたとすれば、この位の文章位、何の苦もなく出来《でか》されてしまう筈なのである。
 従って、ありそうなこととして、この疑問が、皆の胸に湧いたことは、理由のないことではなかっただろう、然し、漠然としているにも拘らず、人間の心に不思議な昏迷を与えるこの感じは、危険なものである。人は、なかなかその妙な暗示から解放されることが出来ない。正隆が、二人掛りで遣って置いて、そっと口を拭っているのではあるまいかという、最初は極く淡い、互に云うのさえ憚られるようなものであった一種のアンティシペーションは、討議、評議と時を経て行くうちに、何時ともなく皆の心の中で、濃度を増して、終には動かすべからざる疑問となってしまったのである。
 疑い出して見ると、事は紛糾するばかりである。どこにも、決定を与えるべき証拠がない。ああだろう、こうだろうと云っているうちに、人は不安にならずにはいられない。そういう結論の与えられない疑の中を這い廻っている自分自身が、一時《いっとき》も堪らないほど、厭に、不安になって来る。そして、結局は、どうでも好い、早く何等かに片をつけてしまったら好いではないかという心持に、なって来るのである。
 こういう場合、与えられる決定が、それを受ける者を考の中心に置いていないことは、明かである。自分の不安を追うための決定である。自分に与える回答である。従って、最も平明な、最も単純なものを「よし」とすることは免れ得ないことなのである。
 正隆の仕事を挾んで向い合った時にも、皆が知らずに、皆がこんな心持になっていた。そして、掴みどころのない、いざこざの末、
「そんな疑いがあるのなら、一層、面倒のない方に極めた方が、一番簡明でいいじゃあないか」
という発言の下に、出来栄としては数等劣った、劣っているが故に、真田の実力であるに違いない仕事を、採決することになってしまったのである。
 洋行とか留学とかいうことが、直接自分達の生活とは、何の関係も持っていない者達は、悪意のない無関心で、評議の材料を取扱ったのだろう。
 並べられた、二百枚近い紙の背後に、どれほど熱した魂が、彼等の指を見守っているか、せめてただの一度でも考えて見ようともしない人々は、ただ、文字を並べた紙を綴じた物、その「物」によって、留学という、一種の概念の傾きを決定しようとしたのである。
 けれども、正隆にとって、二百枚の紙は、決してそれほど軽く見られるものではなかった。その紙背に、あらゆる彼の希望が懸っていた。父の持つ本能的な愛、良人の持つ無自覚な妻への誇、よき生活への憧憬、その他、順調に流れた数年の後、今彼の胸に暖く芽を育て始めた、総ての「よき願い」がどっしりと重く裏づけられていたのである。
 然し、始め、彼の仕事が拒絶された理由を知らなかった時の正隆の失望は、寧ろ感傷的な甘みをどこやらに漂わせたものであった。
 正隆は、ほんとに落胆したのだ。ほんとに失望したのだ。彼は勿論真田を羨望した。あんな、猪口才《ちょこざい》野郎がと云って、口惜し紛れの悪態も吐いた。今度こそ見ろ! と自分の不運《アンラッキー》を呪いもした。けれども、真田と自分との位置を転換させた何かの理由に対しては、一種の敬遠を抱かずにはいられなかった。
 あんなに見えていながら、いざという土俵際で、巧く自分に背負い投げを食わせた、真田奴! その呪咀の中には、心の底で一種の謙譲が保たれていた。彼がいくら、喚いても、怒鳴っても厳然と立って抜くべからざる壁、その壁は癪には触るが正当なものだ、というような、意識が、正隆の心の奥の奥に流れていたのである。
 自負の強い彼は、家族に対しても、じっとおとなしくはしていられない。罵りながら、口では、「何が何だか分るもんか」と云いながら、正隆は、まだ先を見ていた。今度の意外な当外れは、単に機会的な不運《アンラッキー》で、一生を通して、目に見えない彼方から自分を大きく支配する運命の狂いだとは思っていなかった。運命《デスティネー》と、運《ラック》とは違う。彼は、動く、消える、そして、或る程度までは自分で掌
前へ 次へ
全35ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング