田猛君ですか、あの人が行くのですか?」
という反問が、殆ど無自覚の裡に、正隆の口を突いて出た。
「ええそうです、あの真田君です」
然し、彼の老眼の前で、俄にサッと血の気を失った正隆の顔を見ると、何でもないという風だった課長は、急に言葉をついだ。
「それあ、君もここまでやって残念でしょう。それは私も察しる。が、なにしろ、場合が場合だから、今度は、真田君に譲ってやり給え。まだ君なんか若いんだから、先が緩《ゆっく》りしている。あわてないでも好いでしょう。それに君は、家庭もよし、歴《れっき》とした――」
課長は、ここで何故か一寸厭な顔をした。
「兄《あに》さんも持っているのだから――」
「家庭が好い? 兄貴がある? 何を云うのか、それとこれとは、全然異った問題ではないか、そんなことで、左右されることではないのだ。途方もない、何を感違いしているのだ。驢馬!」
正隆は、唇を噛みながら、いまいましげに、額を逆に撫で上げて、ジロリと平気に見える老人の顔を睨み据えた。
然し――。
正隆は、第一、何故自分が除《は》ねられて、あんな真田が選ばれたのか、その理由を知らないでは納得出来ない心持がした。
自分は、あんなに真剣にやったのじゃあないか、自分は、あんなに、あんなに――。
正隆は、急にゲッソリと腹の力が抜けて、妙に震える力の震動が胸元に突掛って来るのを感じた。
あんなに――希望していたのではないか! もう年を取って、半ば老耄した課長なんか、勿論誰が行こうが関ったことではないだろう、然し、自分には違う。そんなに雑作なく、片づけられることでは、ないのだ――。
「それでは――」
強いても、激情を圧えた静かな口調で、こう切出すのは、正隆にとって、最大限の努力であった。三年前の彼なら、いきなり、そんなひどいことがあるものか! と怒鳴らずにはいられなかっただろう、正隆は、いつか身に着いた、経験の、不可思議な力で、グッと燃える火の玉を飲み込んだのである。
「それでは――真田君が選ばれた理由だけを、洩して戴くわけには行きますまいか、自分の――自分の参考になるとも思いますから」
然し、官僚の曖昧に馴れきった課長は、種々遁辞を構えて、説明しないのみならず、数度正隆が圧迫《せま》って、説明を求めると、最後に、彼は氷のような冷淡な表情で、
「そんなに追究しない方が、君のためだろう、自分で考えて見給え。落付いて考えて見れば自分で解ることなのだ、私はもう御免を蒙る――」
と云いきったきり、もう再び正隆の方へ振向きもしなかった。最後の言葉を、課長は、確信のある者の壮重と、威圧とで断言したのである。
この一句が、正隆の心じゅうを、グンと小突き上げた。
君のためだろう、とは何事だ!
正隆は、思わず激しい音を立てて、座から立ち上った。が目の下に、半ば禿げた課長の頭を見ると、彼は、俄に淋しい、生理的に痛苦を感じるような気分に掴れた。
憎みとも、恥辱とも、口惜しさとも、名状し難い感情が、盲目《めくら》のように突掛って来る。グリグリが出来たような、彼の目の前には、今頃はもう有頂天の大喜びで、得意そうに仲間中を触れ廻って、自分の成功を祝われているだろう真田の姿が、幻のように浮び上って来た。
その想像は、彼に眩暈《めまい》を起させる。けれども、思わずにはいられない。
少し膝が曲った細いズボンを、小刻みにチョコチョコと歩きながら、真中から分けた髪を押え押え、へらへらと笑う真田。
たださえ軽薄な真田が、面白半分の煽てに乗って、天地唯独りの俊才を気取りながら、どうだと鼻を蠢《うご》めかせる様子を考えると、想っただけで、正隆はほんとに、嘔きたいような気分になって来た。
あんなに確実そうに見え、見えたばかりか、同僚の多くも、自分に当然の結果として、選抜を予期していたのに、あの真田が、自分に代るということは、一体何事だろう。
平常から、おべんちゃらな男として、数にも上せなかった彼に、自分の座を横領されたことは、正隆にとって、決して単純な失望には止まらない。
今までは、創世後八日目の宇宙のように、晴々と、爽やかに日光の降り灌《そそ》いでいた地球は、俄に、正隆のこの眼の前で頓死してしまったのである。
十
それは実際、総てのために悲しむべき、一つの誤謬であった。
正隆が、外国語に、秀でた天分を持っているということをのみ強調して、考えの中に置いていた人々は、彼が翻訳した文章を見て、不審を起した。
彼が、外国語にこそ精通しておれ、邦文、しかも当時行われていた面倒な漢文的な文章を、これほど立派に駆使することは意外だというのである。
人間が、意外な感に強く打たれたとき、決して平常の冷静を保っているものではない。少くとも、その瞬間だけでも、何等かの不安
前へ
次へ
全35ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング