がら、細胞の一つ一つを満して行くように、正隆は活気づいた。ほんとに、附元気ではない希望と活気とに燃え立った彼は、これも珍らしく、特殊な感激に打たれているらしい妻の顔を晴々と眺めながら、選抜試験の課題ともいうべき、独、仏、英語の或る翻訳に着手し始めたのである。
勿論、正隆は、自分の競技すべき一箇の敵手として、殆ど同年配の同僚が一人在ることは忘れなかった。夜遅くまで、彼が机に噛りついて、あらゆる精力を傾けながら、一生懸命筆を運んでいる時に、彼方の、どこか見えない家の書斎でも、同様の努力が行われていることは、片時も、正隆の頭を去ることがなかった。然し、その競争の意識は、彼にとって決して不愉快な重圧ではない。丁度、雨に降り込められた者が、俄にカッと輝き出した太陽に照らされたように、正隆にとっては、一種の明るい活々とした刺戟である。
時に、鈍重《ダル》になりそうな心持や、長い仕事には付きものの、不思議な焦躁等を、或る程度まで制御して、適当に仕事を新鮮なものにして行く、調節器であるといっても差支えないほど、正隆は、自分の学力と文才とに自信を持っていたのである。
従って、正隆は、自分が留学生として選ばれるということを、殆ど既定の事実のように信じて疑わなかった。
三箇年の海外留学と、かち得べき学位、それ等は、まるで、今までは、絢爛《けんらん》たる光彩を放ちながらも彼方にあった、名誉、栄達、幸福という叢雲の中から、特に彼のために下された、縒金の繩|楷子《ばしご》のように見えた。
これからこそ、ほんとによくなるのだ!
その、よくなる、という内容の詳細は、ただ一面の渾沌ではあるにしろ、正隆は、総ての、よりよきものを空想せずにはいられなかった。単に自分だけによい[#「よい」に傍点]のではない、美くしい、素晴らしい信子のためにもよいのだ、また、小さい、お乳くさい正房のためにもよいのだ、皆によいのだ。皆が、福祉を受けるのだ。その鍵を、今、自分は丹精して鋳つつあるのだという、楽しい意識――。
結婚し、子を持った正隆は、数年前より、遙に単純な心持で、あらゆる仕合わせに面することが出来た。仕合わせと呼ばれる総ての腕に喜んで抱き取られたい、取らせたいという心持が、見えない内に漲っている彼は、ほんとによき父、よき良人らしい熱中さで、彼の裡に共生する幾つかの魂の悦びのために、励し、励まされて、仕事に勤しんだのである。
当時、三十歳だった正隆は、ようよう光明に向って踏み出した生活の三足目で、自分を粉砕する襲撃を予期してはいなかった。予期出来なかったほど、正隆は、或る点からいえば正直になっていたのである。
自信ある競技者のみが感じ得る楽しい、光輝ある緊張の連続で、いよいよ結果の発表されるべき日が来た。
その日の帰途を想って、自ら微笑を禁じ得ないような心持になりながら、出勤した正隆は、自分の机に坐るか坐らないかに、課長室へ呼ばれた。彼は、勿論何の不安をも感じなかった。至極落付いていた。が、その落付いた、もう解りきっているという平気さの下に、嘘のいえない心臓を率直に鼓動させながら、正隆は厚い木の扉を開いて、半白の課長の面前に現れたのである。
「まあ、そこへでもおかけ下さい」
機嫌のいい声で、朝の挨拶をして正隆に、傍の椅子を勧めると、課長は、暫く何か決心のつきかねた風で、頬杖を突いた片手を延して机の上を叩いていたが、いきなりその顔を挙げると、
「いや、どうもあの翻訳はお世話でした」
と云いながら、一寸頭を下げた。
これは、唐突である。正隆は一寸返事を見出せないで次の言葉を待った。が、この予期しない発言の仕方で、正隆は、我知らず、おや変だな、と思わずにはいられなくなった。どこか、彼の思っていたものとは調子が違う。何をこれから云い出すのだろう。
漠然とした不吉の予覚が、心臓をそろそろと堅くしそうになった正隆の面前で、平常の態度に返った課長は「ところで……」と云いながら身を正した。
ところで……? 正隆は、思わず喉をゴクリと云わせた。
「ところで……あの結果ですが――。種々委員とも評議の結果、結局どうも、貴方にはお気の毒だが、真田君の方が定りそうな工合です。勿論、貴方が不出来だったという訳ではない、いや、寧ろ、お骨折で、却って立派に出来てはいる位なのだが――どうも、君も知っている通り、こういうことには種々の都合があるのでね。まあ、今の塩梅では真田君に行って貰うようになるらしいから、それを一寸、前もってお知らせした方が好いと思ったのです」
そう云い終って、また頬杖を突いた課長を凝視しながら、正隆は、思わず自分の耳を疑った。真田が行く……? 真田と――。変だな、そんなことは不可能だ、第一あんな学問もない男が――何かの間違いだろう……。
「真田君――あの、真
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