れてはいながら、その鮮やかな墨の曲線は、飽くまで白紙の上に際立っているように、彼女の輪郭は水際立っている。単に肉体の容姿のみならず、心の姿も同様の繊細な力強さを持っているのである。
 美くしい。全く、美くしい。が、然し、冷たい厳かな美である。太陽の熾《さかん》な火熱の中に、燃えながら咲き満ちる華の美しさではなくて、沈黙の月光が、蒼白く顫える中に燦めく氷華《グレーズ》のような美くしさなのである。
 伝統的な一種の趣味から、形に於て、信子を求めた正隆は、その容の包む魂に接近して或る Unexpected を感じずにはいられなかった。まるで、予期しなかった魂を、彼は、よいとも、悪いともいうことは出来ない。彼女を真実に愛し、或は愛そうとしている正隆は、信子によって、最後の天を示されたような心持さえ感じるのである。
 結婚してから、幾度正隆は、彼女の謎めいた Warning の前に、解答を得ようとしただろう。
 それは、ほんとに彼女の表情である。それ以上に説明しようもない。が然し、一度その、侮蔑ともいえない侮蔑と、自負と、愛と憎と憐愍とを一緒にして、薄水色の中に溶したような、淡い笑を浴びせられると、正隆は、何だか分らない自分の無力を感じずにはいられなかった。従って、あらゆるそれ等の、けれども――という前提の後に従って来るものは、若し彼が、その無力さえ完全に恢復すれば、消失すべきもののように思われるのであった。
 それなら、どうして、見えざるその無力を補充するのかといえば、正隆は、ただ高い地位を我ものにすることだとほか目標が付かなかった。女性の与《あずか》らない男性の世界である仕事で、彼女の持たぬ何物かを得ようとするのである。けれども、これ等の心の過程は、信子の美に、殆ど絶対価値を置いている正隆にとって、決して復讐的なものでないどころか、些の、冷淡さも含んではいなかった。ただ、希望である。形の纏らない野心《アンビション》である。功名心である。一つの暗い洞穴を抜けながらも、天性の自負を失いきれない正隆にとって、それ等は限りなき赫奕《かくえき》たるものに想われる。嘗て彼が、大学の制帽を戴いていた時分に夢想した成功というものと、今の成功とは、その内容の複雑さ、甘美さに於て、著しく違って来ている。
 自分の成功は、世間への華々しい出現は、同時に彼の重宝である美の信子を、一層燦然と輝やかせることであり、彼女の輝きは、同時に翻って、彼の至上の背光《グローリー》となるのである。
 そこまで考を辿って来ると、正隆は、最初の、けれども――という湿っぽい、稍々《やや》伏目になった愁訴を何時の間にか忘れてしまっていた。結局、何といっても、自分は幸福なのだ。仕合わせなのだ。時が経てば、自然にどうかなることを、かれこれ思うのは決して利口な遣り方ではないのだ。信子は素敵だ。親切だ。行届く。それでいいのではあるまいか。
 結婚して間もない若い女性に、それ以上の注文をするのは、自分の方が無理なのだろう、まだ馴れないのだ。まだ馴れないのだ! そしてまた、同じ高みの朗らかさに戻る正隆は、翌年の夏、父親となって、一層その安心を確めたように見えた。
 母となってどこか鋭さが円められた信子は、祖母の名の房の字を貰って、正房と名づけられた幼児と、いたるところに麗しい母子の肖像を描いて正隆を包んだのである。

        九

 信子夫人の美と、一種の威厳ともいうべきものは、結婚後、単にあてどがないということが原因だった正隆の自堕落を矯制していた。それのみならず、父親となって、純白無二な生命をいたわりながら抱き擁《かか》えて見ると、決して悪というべき何物をも持たない正隆の心は、ほんとによく[#「よく」に傍点]なった。このよさ[#「よさ」に傍点]は、時によると彼の弱々しい微笑の間に、大望《アンビション》さえも忘れさせかねないものである。また、時によると、得体の知れない悲しさにさえ沈ませるようなものでもある。
 妻と子と、家と。
 正隆は、生活の快い、日向《ひなた》を感ぜずにはいられなかった。有難い日向である。平和な日向である。そして事のない、日向である。
 もう少しで、そのほかほかと陽炎《かげろう》の立つような生活の安穏に居眠ろうとした正隆は、正房が二歳になった時、思い掛けぬ刺戟を与えられた。
 それはほかでもない、当時、青年という青年の血を湧き立てずには置かなかった、海外留学、それも、農商務省からの留学生として、海外派遣を命ぜられるかも知れないという福音なのである。
 これは全く正隆にとっては、眠気醒しの、灌水浴《シャワーバス》ともいうべきものであった。ぼんやりと、霞の掛ったような頭の上から、サーサー、サーサーと小粒な水玉を撥《は》ねかけられて、急に甦った血行が、快い亢奮に躍りな
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