てなすこともない正隆に、代理を頼んだ。
常識から考えて見ても、家庭の一員である以上、彼が尚子夫人を助けるのは、意外なことである筈がない。夫人の説明を聞いて、正隆は思わず、よろしい、と返事をした。一面からいえば、正隆の口から、その返答を自然に引き出したほど、それほど、夫人の理由《リーゾナブル》は至当だったともいえる。正隆は、その瞬間、常人に還って、彼女の申出を承諾したのである。
けれども、自分の部屋に帰って、いつものように膝を抱きながら、考えるともなく、尚子夫人の言葉を思い出して考えていた正隆は、暫くすると、彼特有の薄笑いを口辺に浮べた。
何心なく素直に、尚子夫人の申出を承知した正隆の心は、また、そろそろと軌道を転換して、蕈の生え並んだ彼の王国へ、軌り込み始めたのである。
夕暮の騒音に混って、微かに唸る蚊を追いながら、燈もつけずに考えていた正隆は、やや暫くすると、
「フム」
と云いながら、体を揺った。
「尚子夫人は利口だ。なかなか抜目なく利口だ」
これが、正隆の第一に考えたことである。
彼女に対して、自分がどういう心持でいるか、それはまるで、住む宇宙が違うような尚子夫人に明瞭な説明は掴めないであろう。けれども、少くとも、彼女は、自分が、どんな傾向を持った人間であるかということだけは、透視しているのだ。
自分の持つ色、あまり美くしくない混濁色、その色に纏まって立つ自分に若し、何か、批評の材料を与えれば、その批評は、直ちに、批評という域を踰《こ》えたものになり得べきことを、尚子夫人は見抜いて、それを未然に防ごうとするのだ、と正隆は考えを廻らしたのである。そう思うと、正隆は、尚子夫人の目前で、よろしい、といった時通りの気分ではいられなくなって来た。何かもっと拗《すね》た、濃厚な上気《のぼ》せたような好奇心とも、敵愾心とも区別のつきかねる気分が、彼のよろしいという返事を、片端しから、噛み潰し始めたのである。
正隆は、それだけの用心を編み出した尚子夫人の心を想うと、思わず唇を引歪めた。不思議な心持である。平常は、何の注意も払われない、無干渉な存在ともいわるべき自分が、今は尚子夫人の最も顕かな目標となっているのだ。何の目標か、それは鮮明でない。用心の目標なのか、或はまた、助力を求めようとする目標なのか、正隆は、少くとも、彼女と、自分とが、僅かでも、同じ標準《レベル》に向い合った二つの焦点となったことに、いい知れぬ、喜びと、同時の有力を感ぜずにはいられないのである。
尚子夫人の周囲に、今少くとも彼女を批評し得る位置にいるのは、自分だけである。小さい子供等と、無知な召使共と、それ等は、主婦としての彼女の権威で、自由に左右し得る者達ではあるまいか。そうすると、病人となった青年の義弟と、彼女と、自分とだけが、これから続こうとする何かの幕に、出現すべき三人の訳なのである。
今、尚子夫人が、僅でも彼に注意を向けている場合、彼が忠実な、真実な助手となって、彼女を助け、感謝を受ける、という想像は、勿論正隆にとって、決して不愉快なものではない。彼は、美くしい人から、正しく注がれる感謝は、その感謝の中に含まれた愛は、どんなに芳しいものであるか、知っているのである。けれども、正隆は、その朝ぼらけのような気分のために、身を労することは出来なかった。それでは彼にとって、あまり淡すぎる総てである。ただ、労力を厭うとかいう問題を抜きにして、その心持を甘受出来ない、正隆の傾向は、尚子夫人と、青年との間に横わる、未発の機会が生む詭計《トリック》の、傍観者となろうと、決心したのである。
決心などと呼ぶべき明かな決定さえ経ずに膝を抱えた正隆の魂は、自ずとその鈍色の薄暗がりにまで滑り込んで来たのである。
勿論、正隆は、見識のある尚子夫人と、純朴な義弟との間に、何の感情的な拘泥もなかったことは知っている。今まで、或は、この先に凝と竦んで眼を光らせている、或る瞬間、までは、何でもないだろうことを知っているのだ。けれども、正隆は、若し、何の危険もないものとして、心の安定が絶対にまで保証されているのならば、何故尚子夫人は、自分に代理をさせようとするのか、という質問が、持ち出されて来るのである。
夜中、親が子を看護するのに、誰が用心をするだろう。
徹夜、姉が弟を守るのに、何の関心が払わるべきであろう。
それだのに、義姉である尚子夫人が、自分に代理をさせようとするのだ。
ここに至ると、正隆は、単純に総てを片づけることは出来なくなる。
人間の魂のうちにある感傷《センチメンタル》と、浪漫的《ロマンテック》とが、或る瞬間の機会《チャンス》と、火花を散らして結合した場合、或は起るかも知れない危険を、賢い尚子夫人は、知っていないとは、思われないのである。
夫人は、そ
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