さえしようとするのである。
 然し、この計画が実行されるのは、容易なことではなかった。尚子夫人は、自然か故意か分らないながら、決して、彼と対座して長時間過すということはなかった。召使や子供達やにとり繞れた食事の時くらいほか、正隆が彼女に用事以外の口を利く場合はない。けれども、さすがの彼も、この機会を利用するほど無恥にはなりきれなかった。考えた末、正隆は、終にまだ十になるかならない子供達を仲介者として、彼女に、あれほど清楚に見える彼女に、醜い媒鳥を放つことにしたのである。
 或る日、正隆は、自分の部屋へ遊びに来た総領の男の子を掴えて、何か非常に素晴らしい、面白いことのような暗示を含めて、下等な、大抵の家庭等には知られていないような意味の言葉を、彼の桜貝のような耳朶の中へ囁き込んだ。
 小さい子供は、勿論好奇心を動かされずにはいない。何のことなの、何ということなのよ、と説明を求めて止まない。が、彼は、怪しげな微笑を唇に浮べて、ただ、
「おかあさまに聞いて御覧」
と云ったなり、芝生で小さい娘を笑わせている母夫人の懐へ放してやるのである。
 無垢な少年が、どうして、彼の、彼のほか分らない計画を透視することが出来るだろう、大急ぎで、興奮して馳せつける子供は、最良の説明者である母夫人の首にすがりつきながら、
「お母様、あのね、何ということなの、お母様」
と神秘な説明を強請するのである。
 廊下を隔て、離れ座敷のようになっている自分の部屋の柱に倚《よ》り掛って、卑しい笑を漂べながら、夫人の声高な笑いを想像していた正隆は、不意に、子供の、澄んだ、無邪気な声が、四辺《あたり》憚らず、朗かに、彼から教えられた言葉を繰返すのを聞くと一緒に、自分の教えたのも忘れて、耳を覆わずにはいられなかった。
 下劣な単語は、無垢な幼児の唇から洩れると、正隆が今まで知らなかった、内容の醜さを露出するのである。
 正隆は、所謂道徳的良心とか、道義とかいうものに、嘲笑的な反抗を持っていた。彼が、尚子夫人に対して、それ等の計画を立てるとき、彼は、一種辛辣な皮肉を含んだ超然さで、それ等の計画を立て、立てられる二個の人間を眺めたのである。けれども、子供等が、丸い喉を張って、あの穢い言葉を繰返すのを聞くと――。正隆は、思わず体中に冷汗をかいて、無人な部屋中を眺め廻した。彼は、恥辱を感ずる。善いとか、悪いとかいう埒を超えて、なすべからざることをした心苦しさが、直接に彼の薄笑いで弛《ゆる》んだ魂を引っぱたくのである。正隆は、夫人にすまないとは思わなかった。が、子供等が持っている何物かに対して、痛々しかった。ほんとに、それは痛々しいことである。幸福な親子が、優しい中音と、飛ぶような声高を織りまぜて、睦まじく笑い合う声を聞きながら、膝を抱えて柱に倚り掛った正隆は、心《しん》から淋しい、どこにも慰安のない、天地から指をさされるような心持に、沈み込むのである。
 それほど、心が痛むなら、何故、最初の一度で正隆は、その呪うべき悪戯《いたずら》を止めなかったのか? 彼は、確かに子供達の、日のような明るさの前に愧《は》じているのだ。相済まないと思っているのだ。それにも拘らず、一度ならず同じ、恥辱に満ちた悪戯を繰返したのは、一言にいえば、彼の目的の移動であった。
 最初、尚子夫人を目標として、彼女のうちから胸の悪くなるような毒気を吹き出させようとして失敗した正隆は、いつか、子供等と自己との関係に於て、新に生じた心を攪乱するような感動に、我を忘れて没頭するようになって来たのである。
 その心持は決して、快いものではない。安穏な楽しさではない。苦甘い、重い、尖った、不思議な気分が、子供等の透徹した声によって湧き上る苦痛に混って、彼を酔わせるのである。
 そうすることは、子供達の、純白な頭に対して死にも価するだろうことを、正隆は勿論知っているのである。彼は自分で、自分の破廉恥に苦しみながら、その苦悩の底に澱む、愛に似た、痛痒い心持を、色褪めた舌で、嘗め尽そうとしたのである。

        十六

 子供達の魂に加えられる冒涜に堪えきれなくなった尚子夫人の、激しい、焔のような面責に、ビシビシと鞭うたれながら、なお正隆が、彼の悪戯を忘れかねているうちに、佐々の家には一つの事情が持ち上った。それは、丁度その夏、休暇で遊びに来た義一の末弟に当る青年が、来ると間もなく急に熱を出して、そのまま床に就いてしまったということなのである。
 思いがけない病人で、家中がぞよめき渡った。まして、尚子夫人は、二人の幼児を保護しながら、病人の世話をすることは、容易なことではない。が、それのみならず、たとい、義弟ではあるといっても、良人の留守中、彼女一人で、徹宵、この青年に附添うことは、不適当だと思った尚子夫人は、これといっ
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