並んで、正隆には、またも自分を鷲掴みにしようと、頭の真上で輪を描いている、不思議な宿命を、思い出さずにはいられなくなって来るのである。
愛なのか、情慾なのか、単なる好奇心なのか。正隆が、尚子夫人に感ずる牽引は、彼にとって力強い、蠱惑に満ちたものであった。薄暗い、じとじとと蒸暑く湿っぽい泥の上に、ぞっくりと蕈《きのこ》がぬめくる丸坊子の頭を並べて生えているような、正隆の内心、その物凄い洞穴の彼方の裂目から、ほのかに見える薔薇色の光線が、尚子夫人の方向である。永年の単調を破りたい何物かの蠢《うごめ》き、その蠢めく何物かが、正隆を自ずと彼女の方へ振向かせるのである。
無心で、朗かな端正な尚子夫人の方へ、彼の心に生える一面の蕈が、ぞっくりと首を向けて眺めている。目のない、蕈の頭の凝視、正隆はその無気味などよめきを心の隅々にまでも感じた。彼は、怕《こわ》くならずにはいられなかった。自分のうちに動く見えざる、聴えざる或る力は、若し彼が一刻でも監視を怠ったら、どんなところで、悪運と密会するか分らない。下等な酒場で、下等な女達を笑わせている時いつも彼の心に浮ぶような陰謀は、万に、一の僥倖で、尚子夫人を、自分の許に走らせるかも知れない。けれども、若し、その悪魔的な忍笑いの享楽が、皮一重彼方に表現されたとしたら、もう自分は破滅だ。運命は、今度こそ尚子夫人を使って、命までをも奪うだろうということが、正隆の、最も強烈な恐怖の原因になって来るのである。
たとい、一面からいえば妄想ともいうべき空想通り、尚子夫人が、自分の前に跪《ひざまず》くとしても、運命は、何時自分に絶交状を送って来ただろう。
呪咀は何時解かれたか?
世界中の人間は、若し今度自分が、恐るべき係蹄に掛ったが最後、力を合わせ圧し殺してしまうだろうことを、正隆は思わずにはいられない。
若しかすれば、そんな死を死なせるために、尚子夫人も遣わされたのかも知れないではないか、ここに正隆の、最後の止めが刺されるのである。
それ故、彼の悪夢のような妄想が、たとい僅かでも外面に現われなかった原因は、寧ろ、道義的な自制というより、彼が自己の生命に対して抱いた激しい恐怖が、彼を抱き止めたといい得るのである。
呪咀された運命という言葉を、正隆は、今まで幾度繰返して来ただろう、これからまた、幾度繰返して行くだろう。
正隆は、自分の一生を貫いて失墜させた力を、人間の群が、彼に与えた他力だと思う場合もある。そういう時、彼は嫉妬で、自分は苦しめられるのだと思う。明かに「人」が彼の敵手なのである。然し、彼の思考が進めば進むほど、それは具体的な人間の形体を脱して来るのが常である。そして抽象的な、運命という言葉を帯びるようになるのである。何故ならば、生れようともせず、産んでくれとも願わなかった自分を、地上に送り出した力は、何か、という処まで、彼は逆上るのである。打たれ、挫かれ、そして失望させられるものでありながら、何故、希望を持たずにはいられないのか、ということである。
そのままで行けば、また同じ悲惨を反覆するに過ぎないのに、何故人間は忘却するのか、何故過去を忘れて、未来の係蹄に掛ろうとするのか、ということである。
正隆は、これ等を思うと、或る超人間的な偉力を感じずにはいられない。重い、暗い、そしてこの上なく敏捷な間牒が身の廻りをついて離れない。
若しその間牒に、内心を覗かれたら? damn ! 正隆は、せわしく周囲を見廻しながら、肩を揺って、大きな心の閂を下すのである。
実行として現れた或る意向が、外界との折衝を持った場合ならば正隆は、その行為に対して、責任を負わなければならなかっただろう。然し、それが、たといいかなる種類のものであっても、ただ心でのみ思われている場合、彼は、総ての多くの人々がそうである通り、無責任であった。
従って、尚子夫人に対する彼の妄想は、それが妄想に終止する、という黙許を得て、却って勢を増すようにさえ見えた。或る時には、殆ど堪え難くさえ思われる誘惑に、正隆は恐怖と陶酔とに顫えながら、歯を喰いしばって、対抗しようとしなければならないのである。けれども、空想が益々熱を加え、色彩を濃くして来るにつれて、正隆は不安を感じずにはいられなくなって来た。何時か、無我な瞬間に緊張は破れて、打ち負かされることを恐れはじめたのである。彼は怕いのだ。総ての予想される結果の前に戦いた。が、然し、尚子夫人の持つ魅力、それも女性が共有するアフェクテーションではない、天性が持つ無心な魅力を、どうすることも出来ない。そこで正隆は、美くしく健やかに見える彼女の心の奥から、何か醜陋なものを発き出して、その腐敗物で、輝く像を塗り潰そうと思い始めた。
自ら構えた幻滅に、強いても落付き、或る程度までの侮蔑を感じ
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