、何の道義的責任を負わされることもなければ、不安を感じさせられることもなかった。彼が、無恥になって見たいと思う程度に、女性達も、不幸な無恥に馴れている。愛を黙殺した情慾の専横のうちに、正隆は淋しい追放者の自由を味っていたのである。
 然し、佐々家に移って以来、正隆は強いても己を縛っていた、一種の諦めともいうべき盲目を、そろそろと、然し確実に破られそうになって来た。
 彼が現実的に思い得る、恐らくそれが最高の程度に、家庭的幸福を保有している佐々夫婦が、要するに放浪者である正隆の魂を、淋しがらせずに置く筈はない。主人の義一は、彼と殆ど同年配であった。尚子夫人もまた、今もなお彼の心眼にまざまざと浮ぶ信子夫人と、同じほどの年頃である。あらゆるものが、現在は手も、心も届かない彼方に、奪い去られたものではあっても、若し呪咀された運命が、僅かの手心を加えてさえくれたならば、必ず、今日自分の身辺を囲繞《いにょう》する筈の光輝であるのを思うと、正隆は堪え切れない思いが、自ずと胸に迫るのを覚える。
 希望は不死鳥なのか、不思議な未来への願望。それを飽くまでも拒絶し、否定し、無に帰そうと努力しながら、なお、希望はそれ等の重い巖の下でさえ育とうとする。
 正隆は、恰も、日に輝く大理石の円柱《まるばしら》のような尚子夫人に対して、云いようのない圧迫を感じた。
 その微妙な動揺は、永い年月の澱《よどみ》を徐ろに掻き立てて沈滞した心に、異様な苦甘い刺戟を与えるものなのである。

        十五

 尚子夫人に対する正隆の心持を、概括的に批評すれば、単純に、半ばの嫉妬と冒険心とを、彼の暗い、重い情慾に加えたものだともいえるだろう。
 けれども、正隆の心持は、ただそれだけのものではなかった。もっともっと、種々雑多なものが混合していた。その中で、最も大きなものは、尚子夫人、または彼女の良人によって、沈黙のうちに摘示された、自己の価値下落という、寂しい自覚なのである。
 少年時代から、美貌の所有者として、相当の自信を持ち続けた正隆は、今、四十七歳になった自分が、所謂女共にとって、どれほど魅惑的な容貌を持っているかということは、何よりも明に分っていた。
 恂情的な、懶い、憂愁に包まれたような蒼白い額は、濃い眉と、深く、大きく輝く眼によって、どんなに男性的な我儘と、激情を示しているか。
 正隆は、自分の容貌に感動させられない女性のあるべきことは思っていなかった。感動されて、自分の価値に金箔をつけるだろうことを疑おうとはしなかった。また、実際、彼のために歌い、舞いした女達は、少くとも或る特殊な好もしさを、彼の美貌に捧げたことは事実なのである。
 それ故、まだ若い、そして美くしい尚子夫人を彼方に置いて考えると、正隆の脳裡には、何となく華かなエキサイティングな気分が漲って来るような心持がしていたのである。
 それはただ、気分だけではあった。が、いよいよ尚子夫人に近接して見て、彼女が、ただ彼の人格的価値にのみ目標を置いてい、従って、暫くの間に大方彼に払うべき尊敬の程度を知ったということが、正隆に、或る不満と、自暴自棄に似た気分を起させるのである。
 勿論、正隆は、夫人としての尚子が、絶対に不可犯的な態度であるべきことは、知っていた。けれども、一面からいうと、確実な彼等の愛を裏書するために、何でもないものとして現れた自分が、彼の自負心を、暗くするのである。この心持は微妙なものである。
 正隆は、決して、尚子夫人に、彼の位置が要する以上の注意を払って貰おうとは、強請するどころか、期待してもいなかった。彼は、なすべきことと、すべからざることとの境を、彼等家庭の清浄さに於てまで、割れた蹄を利用して跳び越えるほど、魂を失ってはいなかった。然し、若し、義一が、尚子夫人の愛に、些でも何等かの間隙を感じているのなら、あらゆる機会が、最も用心すべき機会《チャンス》が、二人の間に露わされている場合に、正隆を近づけることはなし得ないことではないであろう。

 その信愛の深さが、正隆に嘗ての結婚生活を想起させる。これほどの違い、同じ女性である尚子と信子、そしてまた、同じ男性である、自分と義一、同じ天の下に、同じ日を仰ぎながら、幸福はかくまで大きな差を持っている――。
 ここで、正隆は、悪魔的な冷笑を浮べた。あれほど、互に信じ合っている彼等の間に、一寸割って入って、今まであれほど、確実に彼等のものらしく見えていた幸福の殿堂を、サムソンのような腕の力で、打ち砕いて見たら、どんなだろう。
 尚子夫人を、我ものにして、擁しながら、絶望して髪をむしる義一を見下したらどうだろう。どうだろう――そう思ううちに、正隆は、激しい悔恨に魂を掴まれて、サーカスティックな嘲笑を消してしまう。
 この時、道義的な不安と
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