たのだ、と仮想することに依って、正隆は辛うじて、息を吐くのである。
 若し、信子夫人が彼を今もなお愛し、慕い、求めている心の麗わしい、魂の輝やいた女性だとしたら、一体、自分は、どうしたら好いのだ? これが、あの当時から正隆の絶えざる恐れである。若し、彼女がそうであるとしても、正隆は、一旦自分の胸から引離されたものを追って、更に完全な奪略を仕返すほどの力を持たないことを自覚してもいたし、また一面からいうと、それは彼の自負心を赧らませることでもある。信子夫人は忘れられない。忘れられない、が元に戻す力はない。彼女の遺して行ったあらゆる記憶のうちに我ともなく耽溺して、終には魂が燻り上るほどの嫉妬を感じる正隆は、その苦しい遁路として、彼女を、「見損った」と、強いても思うように努力したのである。
 自分に齎された総ての不幸がそうである通り、信子は、衆人の悪意から生れた、顋門《ひよむき》のない私生児である。彼女は自分の破滅のために遣わされたのだ。自分を苦しめるために、寄来されたのだ。それだから、あれほど、自分の希望通りの容貌さえ具備して、自分を蠱惑《こわく》してしまったのではないか。妖女! そんな信子は、狼にでも喰われてしまえ、罰当り奴!
 けれども、正隆の心は、この一句の呪咀で終ってはしまわなかった。
 たとい僅かでも経験した家庭生活の追憶が、彼を、影のように付いて廻って苦しめるのである。母とし、夫人としての女性は、決して、単に、情慾の対象といわれるべきものではない、正隆は、それをよく知っている。
 女性のうちにある何だか分らないような力、その力が不思議に男性に及ぼして、或る時には感傷的にしながら、男性にない力を添えて、生活を運転して行く魅力。或る時に於て、女性の方が遙に霊的になることを正隆は否定出来なかった。
 勿論、正隆は、女性が彼女の内奥に有する力の詳細まで解剖し分解するだけの努力は払わなかった。然し、直感的に彼の胸と心に迫る或るよき[#「よき」に傍点]感を正隆は尊敬していた。永遠の女性とも呼ぶべき、女性の理想的想像は、説明するにはあまり複雑な内容を有しながらも、若し、それが彼の目前に現れれば、一瞥で、「そのもの」であることを認識《リコグナイズ》し得るような直覚を彼は持っていたのである。
 それ故、正隆は、理想的に女性を想う場合、総ての「彼女等」は敬愛されるべき筈[#「べき筈」に傍点]のものとして承認せざるを得ないのである。それは、理想として、彼は認める、然し、考えて見ろ、信子は、あの信子は、矢張り一箇の女性なのではないか?
 ここに正隆の、女性に対して馬耳《うまみみ》のサティールとなる原因があるのである。
 たとい、正隆が、信子一人を、悪運の使者だと仮定しても、地上の女性は、決して信子一人を拒絶したことによって滅せられるものではない。
 彼は多くの美くしい人々、優しい人々、心の秀れた女人達を見なければならないだろう。見なければならないのみか、或る程度までは、彼女等の力に支配されずにはいられない。従って、若し正隆が、素直に彼女等の、真の美を、体と魂とに認めるならば、殆ど必然の結果として、彼女を、自分の伴侶として持ちたいという希願、伴侶として生活の素晴らしい改造を行いたいという、希望が起って来ずにはいないのである。
 けれども、正隆は、それを恐怖《おそ》れた。女性に対する尊敬、女性のよき霊魂の承認が、彼を誘って行く方向を見て身震いをした。若し、女性を一歩自分の生活の内面に踏込ませれば、今度こそ、あの恐ろしい呪咀は、どんな詭計を用いて、自分の生命をさえ奪うかも知れない。輝やかしい、清浄な女性の存在と、彼女によって洗われる生活の光輝とを予想しながら、自らの暗さに跼んでいることは、正隆には堪え得ないことである。
 そこで彼は、地上のあらゆる女性の霊魂を虐殺してしまった。魂ぬきの、肥えふとった白い肉体の所有者とした。歎く心も、恨む魂もないものとして、正隆はただ、自分の圧え得ない情慾の、消耗器として女性の全部を見下したのである。
 正隆は、強いても、人間の本能の暗澹たる力の一方のみを肯定しようとした。人間を獣以下にこき下げようとしたのだ。けれども、それは、彼が人間である間は、苦痛なしに出来ることではないだろう。
 どれほど高貴な生活をする女性でも、どれほど、霊的な生活をする女性でも、彼女等が女性である限り、同一の衝動の前に、髪を振り乱す者だと思おうとはしながら、正隆は、さすがに、家庭の幸福を乱そうとするほどの無恥にはなり切れなかった。育ち始めた芽のような少女達を見ると、彼は自ずと、自らの心を刺されずにはいられなかった。それ故、信子夫人を失って以来、彼の性的生活は、自ずと著しく低級な処に、その対象を見出すようになって来たのである。
 そこで正隆は
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