とを恐れた。自分の呪咀に毒されて、焼き爛《ただ》れた黒紫色の運命を、正房の、青空のような将来に、感染させたくなかったのである。それ故、正隆は、母未亡人が涙を流して歎くほど、正房を放擲してしまったのである。
 佐々未亡人の保護の許にあるという点に於て、等しく二人の「子」である正隆と正房とは、また等しく、彼女の愛を分割されていた。正隆は、可哀そうな、運の悪い変り者として、正房は、不幸な母の無い片親の、しかも頼りない片親の子として、未亡人の狂熱的な愛の許に孚《はぐく》まれた。正隆を片親の子として、偏愛のうちに抱擁した未亡人は、第二代目の正房をも、同様の亢奮で抱き竦めた。総てが、正隆に行われたと同じことがまた正房の上にも繰返されているようにさえ思われる。然し、正隆は知らぬ、無関係な態度で、彼の隠遁所に身を跼めていた。正隆と正房とは、全く畸形な、信愛の絶無にさえ見える父子関係を持ちながら、未亡人がこの世を去るまで、同じ翼の左と右とに、互の影を眺め合って暮して来たのである。

        十四

 佐々未亡人が死去したとき、正隆は四十七歳になっていた。子の正房は、十八の青年であった。今まで、未亡人の輪郭のうちに混って、存在をぼやかしていた二人の不幸な父子は、俄にその力弱い姿を、天日に晒さなければならなくなって来たのである。
 この場合、当然に起るのは、彼、正隆の自活という問題である。未亡人の遺産は、永久に彼等を無為に送らせるほどはない。従って、正房と彼自身の生活の足しとするために、正隆が、何かの職業に就くことは、この場合、彼が父として負うべき当然の義務であったのである。けれども、正隆は、掉頭《かぶり》を横に振った。誰が何と云っても、動こうとはしなかった。周囲の勧誘と、自らの動揺が強ければ強いほど、運命の、あの悪辣な係蹄を思う正隆は、命に懸けんばかりにして、あらゆる申出を拒絶した。そして、人々の侮蔑の混り合った憐愍のうちに、甥に当る人佐々義一の家庭に移り住んだ。丁度その頃、佐々の当主が、海外視察に派遣されようとする時であったので、主人より年長者である正隆は、言を換えれば、無人な留守の番犬として迎えられることになったのである。正房を、親戚の一人に委ねて、正隆は、明るい、幸福な家庭に、ポツリと薄黒く汚点《しみ》のような姿を現したのである。
 壮年の主人を戴いた若い佐々の家庭は、総ての隅々にまでも、見えざる歓喜、聴えざる歓声が漲っているような、光明に包まれていた。事業に於て、着々と進むべき道程を進んでいる主人と、まだ三十を僅か越した豊艶な夫人と、一人ずつの男と女との子供達、それに召使いを混ぜて、朝から晩まで、笑い声の絶えないような環境に、燻《くすぶ》った、澱んだ正隆の魂が投《ほう》り込まれたのである。
 誕生の時から老年に近い今まで、嘗め殺しもしかねない未亡人の愛に浴して、勿論正隆は、優しさとか、親切とかいう感情には、充分飽満していた筈である。けれども、新らしい佐々家に移ってから、一日一日と日が経るに連れて、彼の心に湧き上って来たものは、一種の感嘆と、同時の羨望である。
 屋敷の周囲に槇をずうっと植え込んで、裏の菜園で苺の実熟《みの》るこの家には、五葉の松に手奇麗な霜除をした九段の家とは、何かまるで種類の違った力がある。光る仏壇と、どこか年寄くさい陰気の漂っていた家に比較すると、二人の子供が、キーキー笑い叫びながら芝草の上を転り、燕のようにブランコを振る光景は、何という相異だろう。
 犬っころのように、無我な幸福で躍り廻り、跳ね廻る子供に取巻かれながら、散歩する夫人の姿を見ると、正隆は一種表現し難い愛惜を感じずにはいられなかった。過去の追憶もあるだろう、強いても殺戮し続けて来た希望への哀悼もあるだろう。正隆は、一新された環境のうちにあって、共に一新された或る不安定を、彼の生活の根本に於て感じずにはいられなくなって来た。それは、信子夫人を失って以来、十六年間彼が感情に於て否定して来た生活の模型が、ここでは正隆の暗い努力に対してあまり無惨なほど、確実に営まれている、ということなのである。
 正隆がどれほど、美しい信子夫人を愛していたか、それはもう問題外である。その愛した夫人を、彼が如何様にして失ってしまったか、これは、正隆にとって、思い出すのさえ苦痛な疵痕《きずあと》であった。彼が眠薬を飲まされて、うつらうつらと夜昼のけじめもなく睡っていた間に、万事を取定めて、現れたと同様の突然さで彼の許から永劫に去ってしまった信子夫人を、正隆は、どうしても、忘れること、諦めること、生活の圏外に放擲することは出来ない。それは、十六年前の、当時がそうであったと同様に、今もなおそうである。
 ただ、嘗ては楽園の使者のように見えた彼女を、今は、呪咀された運命の手先だっ
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