たのは確である。そこで、未亡人は、信子夫人に対しては、親切に満ち、理解に満ちた姑として、彼女の美と、技倆とを、寛大な自由に解放し得たのである。
それからの懶《ものう》い、単調な十六年間。
恐るべき十六年を、正隆は、何の躊躇もなく母親に見捨てられた正房と共に、母未亡人の陰に隠れて、日の目の差さない人世の裏に、黴のように生え続けた。
彼自身のうちに巣喰う運命的な或る力と、その力に誘われて、容赦なく彼を圧倒する、所謂世間の、無責任な、利己的な他力に、完全に征服された正隆は、ただ、彼の肉体が地上にあることによって、僅かに彼の存在を、周囲の者に思い知らせるような時を、一日一日と殺して、長い長い年を経たのである。
正隆は、もう希望と呼ぶべき何物をも持ってはいなかった。また、一面からいうと、恐ろしい運命の係蹄である、希望によって、静かな生活から誘い出されることを、彼は極度に用心したのだ。
一度は、一度より巧妙な計画を廻らして、終には、敬愛し得た唯一の女性である信子まで、彼の胸から引きさらって行った運命は、いつも、定まって、餌を、幸福という色に彩って、投げてよこしたではないか? 正隆は、もうそれを否定する力は持たなかった。従って、自分の生命にまで危険を持っているだろう誘惑は、結局、あらゆる希望だということにならずにはいない。彼は、自分のうちに湧く総ての人らしい祈願――一人の頼りない息子である正房の幸福を祈る心、生活の改造と、そのために求められる愛の、よき復旧――等を、それ等が強ければ強いほど、正隆は自ら恐れて縮み上った。この不思議な、血行が人間の力で支配出来ないと同様に、或る程度までは不可抗的な希望という魔力、明るい、胸の躍る、その希望に釣られまいとするために、その係蹄に足を取られないためには、正隆は、その希望を殺さなければならないのを発見した。が、希望は不死に見えた。希望そのものを縊ることは出来ない。そこで、正隆は、自ずと希望の対象となる総ての外界の価値を、彼の思い得る最低にまで引下げた。そして、結局、自分は、彼を希望する、が、然し、見ろ、世の中はあんなだ、俺の行くだけ、それだけ価値のある場所はない、という、一種の理論を構成して、強いても、不能力者となったのである。
三十から四十歳にかけての時代を、こんな状態に送ることは、正隆にとって、恐ろしい苦行であった。彼は、家庭を失った寂寥にも堪えかねたし、また無為な、力の遣り場のない日常にも圧せられた。彼は、それ等の不調和に、真実に苦しんでいたのである。けれども、長兄や、或は親戚の者等が、彼のために或る地位などを、周旋すると、正隆は寂しい冷笑を漂べながら、
「僕は、あんな泥棒共の仲間に入るのはいやだ」と拒絶した。が、時によると、つい、活気に満ちた生活の光輝に誘われて、彼も我知らず話に乗ることがある。そんな時、何時ともなく誘われかけていた自身に気付く正隆は、慄《ぞ》っとして心を震わせながら、この話がどこまで進行していても、破約にしてしまう。二度も三度も、正隆はこんなことを繰返した。俺を使う人間はいやしないのだ、と表面は、辛うじて傲語しながら、彼は酒を煽った。そして、下等な女の処で夜を明す。その時、蒼白い正隆の魂は、どれほど顫え、啜泣きしているか、誰も知る者はなかった。知らずに、彼を非難した。彼が、彼等の中に存在している以上、知らず知らずいかなる点で、彼を苦しめているかも思わないで、攻めらるべきための存在のように彼を非難したのである。
人々にとっては、正隆が、夫人が逃げ出すほど乱暴をして心配させて置きながら、気を入換えて仕事に努力しようとしないばかりか、正房を放ったまま、酒を飲み、女に耽ることを、非常な自堕落、無感動として、攻撃したのである。
「けれども、それなら、誰が、俺の一生を通じて責任を持ってくれるのだ? 自分が希望を持って努力すれば、丁度好い加減の処で、がらがらと崩して絶望させてくれるだろう。絶望させて置きながら、絶望しておれば、貴様等はまた、それで咎める。結局、それならどうしろというのだ。世の中は世の中は、善いことをしても、そのまま歓びはしないのだ。それかといって、悪いことをすれば、なお、わいわいと騒ぐだろう、手足の出ない処へ押込めておいて、出ないのは悪い悪いと云ったって、それは無理だ。俺は思う。人間なんて浅間しいものだ。自分が馬鹿に出来る者だけ見せて置けばいつも安心して、偉そうなことを云って納まるのだ。俺は何も出来ない、出来ないのではない。させないのだ」
正隆は、彼の生活の記念ともいうべき正房を、瞳子《ひとみ》のように心の中では愛していた。が、彼の教育に、その存在に、何の注意も払うまいと、努力した。何故? 彼は、自分の手、心を触れることによって、少年の未知の運命を狂わせるこ
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