の運命的な瞬間を、避けているのではないか。
 そう思うと、正隆は、この瞬間の生ずべき、せめて空間でもを与えたいという、慾望に駆られるのである。
 けれども、この慾望は、決して快いものではなかった。
 傍観する自分の眼前で、その恐ろしい、息を潜めるような瞬間が実現せられたら、目撃者である自分は、どうしたらよいのか。その、ただ刹那の蹉跌が、家庭にどれほどの不幸を齎すか、そしてまた、その総ての悲惨の第一の原因たる機会を、故意に構えてその綱を引いた自分は、どれほどの責任を負わなければならないのか。
 それ等のことを思うと、正隆は、裏切者の負わされる重荷を魂に、どっしりと感じずにはいられない。そんなことはないように、そんなことが起らないように――。
 然し、それなら、彼女に代って、青年の傍に引添うかといえば、正隆は、矢張り否と首を振らずにはいられないのである。
 貞淑に見える、素晴らしい尚子夫人の上に起る、悲しみへの転機を事実として差附けられることは、正隆にとってあまり恐ろしい。けれども、堕天女としての尚子夫人を空想に描く時、正隆の感情は、奇怪な顫動を感ぜずにはいられないのである。
 女性の真実を、多く、幾度となく破滅させた瞬間の忘我、その切迫と、予期とに、あの、丸らかな夫人が、胸をときめかすのを見たいのである。
 どうだ!
 正隆は、訳の分らない亢奮で顫えた。
 畸形な歓楽である。
 圧殺された愛、未練、復讐の快さ、寂寥、損傷の――ああこの心持!
 正隆は、歯をがつがつと戦《ふる》わせながら、足音を忍ばせて、家を抜け出したのである。



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月7日公開
2003年7月13日修正
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