分が、どんな人間か、またどんなに信子からは観察されるだろうということなどは、問題にもしていなかった。
彼女の傾向も、性質も、一通り未亡人の説明で納得した正隆は、ただ妻として自分のものになるべき信子、或は信子という名を持って生れた、一種の美の所有を、待ち焦れ、求めたというべきなのである。
八
その、正隆にとっては、寧ろ望外ともいうべき信子を、いよいよ滞りなく妻として迎えて、同じ構えの中に新居を持ち、また、長兄の尽力で今度は、農商務省へ出勤するようになって見ると、正隆は、どれほど謙遜に計って見ても、自分が幸福への、最も確実な鈎を投げた者とほか思われなかった。
物質は、新しい家庭に華やかな色を添える以上に豊富である。生活の変化と共に甦った功名心は、そろそろと彼の胸の中で芽を吹き始めていた。その上、兎角面倒の起り易い嫁姑の間は円満で、彼の眼から見ると、互に競い合っているようにさえ見える二様の愛が、持ち得る総ての奉仕を捧げて、彼の前に呈せられているのである。
一年前の、K県での暗い月日は、今思い出すだけの価値もないようにさえ思われる。正隆は、現在自分を抱擁する薫しい幸運の徴《きざし》の裡に、あらゆる過去の陰翳を否定していた。否定していたのみならず、あの瞬間と、今の、この、光り輝く薔薇色の瞬間との間には、何の連絡もなく思われたのである。
幸福を思って微笑する時み、悲運を思って、思わず眉をひそめる時にも、正隆は決して自分をその中点として描いてはいなかった。
幸福は、類なく繊麗な妻の信子の黒い瞳と、愛撫し、愛撫し、愛撫し尽してもまだ足りないように見える母未亡人の、豊かな頬の皺の中に保証されているような心持がする。それなら、この種の幸福の萌芽を、また、あの時分のように蹂躙《じゅうりん》する者があるだろうか?
紫縮緬の衿から俄にパッと光るような項《うなじ》を浮立たせた信子夫人が、鋏の小鈴をチリチリ鳴らしながら、縫物をする傍に横わって、正隆は、思うともなく、そんなことも思って見る。
けれども、それは決して、思って見るという程度以上には進まなかった。また、進むべき種類の想像でもなかった。正隆は、心に確りと描かれている豪奢な幸福の色調を、一層鮮に引立てるために、一寸使った影として、楽しく歓びに満ちた筆触《タッチ》で一抹の灰色を引くのである。
こんなにして
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