である。上品でありながら、飽くまでも、瀟洒でなければならないという、彼の条件を知って生れて来た者ででもあるかのように、その立姿は冴え渡って、すっきりとしている。しかもそれが、高槻信と自署されているのを見て、正隆は思わず、何物かに胸を衝かれたような心持がした。
 ただ、美くしい、ただ、素晴しい婦人として、彼方に眺めていた彼の観賞眼は、この三つの文字で俄に、その視線の距離を縮めてしまった。焦点が、グッと動いて心の真正面に移って来たのである。
 子供の時分、よく母未亡人に連れられて遊びに行った、あの築山のある、泉水に緋鯉が泳いでいた家に、こんな娘が住んでいるのかと思うと、正隆は一種不可解な、謎を感じずにはいられなかったのである。
 もう、二十にもなっているのなら、自分とは、たった五つ六つの違いである。
 まだ漸く七つか八つだった自分が、
「おばちゃん、今日は」
と云いながら、紫|天鵞絨《ビロード》の大黒帽子の頭を可愛く下げたその時分に、多分は、ろくに歩けもしない赤坊の信子が、母親の膝にでも抱かれて自分を見ていたのかと思うと、正隆の胸には、ついぞ湧いたことのない、一種の懐しさが後から後からと湧き上って来た。その懐しさも、曾て彼が一度ならず経験した種類のものとはどこか異ったところがある。
 もっとあどけない。もっと、色が、ほんのりとした桃色である。がそれにも拘らず、その桃色は、未来と過去とを貫いて、同じ桃色をほんのりと漂わせている、いたのだ、これからもいるだろうというような心持のするものである。
 それが、愛と呼ぶべきものなのか、或は、所謂縁というべきものなのか、正隆に区別はつけられなかった。
 その時分の教育で、愛の本質などということに就てかれこれいうより、先ず美貌を望む正隆は、よし彼女が、千里彼方の見知らぬ国の者であろうと、その結婚を拒みはしなかったであろう。彼が、満されない希望に終りそうな不安を持たぬでもなかった、その美が与えられるということに加えて、親と親との関係は、他人とはいいながら、幾何かの接近を両者の間に持っている。正隆は、どこにも非の打ちどころがないと思った。非の打ちどころがないばかりか、もう二度とは恵まれない幸福であるという気さえする。結婚などというものは――と、小鼻に皺を寄せていた正隆は、平常の冷淡さを、臆面もなく顛倒させてしまった。
 彼は、良人として自
前へ 次へ
全69ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング