は、質問を受けないのみならず、自分自身も、何の反省や自責で、苦しめられずに済んだ。
彼は、久し振りで悠々と、馴染み深い環境の中に身を寝そべらせて、居睡ったのである。
けれども、おいおい日が経つに連れて、心の落付きが戻ると共に、K県での記憶は、何かにつけて、正隆の眼の前に現れた。
赤坊の時から見なれた母未亡人が、相変らず、黒紋羽二重の被布に、浅黄の襟をかけて、小ぜわしく廊下を歩み廻るのを眺めながら、朝夕、細かな、女性的な情緒に抱擁されている今の正隆にとって、K県の思い出は、我ながら、奇怪なものになってきたのである。
思い返して見ると、自分がほんとに神経衰弱だったから、あれほど真暗闇の苦痛を味ったのか、それとも、事実に於て、周囲がそれほど惨虐であったのかという境は、いつも際どいところで、ぼんやりとしている。どちらが、どうだったとも決定しかねる心持になって来るのである。
けれども、あれほどの苦痛の原因を、ただ、俺が神経衰弱だったからなのだ、といって片付けることは、正隆の自尊心が承知しなかった。
若しそれを承認すれば、結局、悪い、捻れたのは、自分一人で、他の人々は、皆よい、完全な、親切な人々だったのだと、いうことになるではないか。
「そんなのは、俺はいやだ」
正隆は、我儘らしく首を振った。
が、それならば、周囲にいた、あらゆる人々は、校長から給仕に到るまで、皆悪人ばかりだったのか、学生は皆、買収されていたのか、といえば、さすがに、うんそうだとも、とは云いかねる何ものかが、心の底に頭をもたげて来るのである。
小さい鉢植えの紅梅を綻ばせながら、霜除けをした芭蕉の影を斜に、白い障子に写した朗かな日を背に受けて、我ともなくうつらうつらと思索の緒を辿る正隆は、ここまで来ると何時も、闇で見た幽霊を、追懐するような、漠然たる気分になるのである。
幽霊を、きっと見たには違いない気がするのだ。若し、相貌の詳細《ディテール》を説明しろと云われれば、今直ぐにでも出来るのだ。けれども、いざ、それなら、ほんとにあそこの壁に立っていたのかと詰め寄せられると、決定的な返事には窮するような心持なのである。
そうなると、正隆の眼前に拡がった濃霧《ミスト》は一層深くなって、終には、K県に於ける農学校そのものの存在さえ、怪しくなって来るのである。秩序立てて考えて見れば見るほど、自分の立場が
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