た笑を忘れずに、
「まあお若い方は、理屈っぽいこと、何でもない、ほんのお口直しか、お口穢しでございますわ」
「そうですか――然し、奥さん、奥さんは、私がこんな作法を知らないことは、始めから御承知なんでしょう。御承知でありながら、何故、私の知らない、知らないから飲めもしないものを、下さるのですか?」
ここまで来ると、さすがの副島夫人も顔の色を変えた。正隆を見た眼を反らして、凝と彼方を見ていた夫人は、暫くすると、殆ど、命令するように、はっきりとした口調で、
「どうも、お気の毒を致しました」
「それでは、失礼でございますが、御免を蒙って、貴方」
夫人は、眉を上げて、駭《おどろ》きと不快で、度を失っている良人を見た。
「お廻し下さいませ」
この夫人の態度が、正隆の言葉に解くことの出来ない封印をしてしまった。
その座敷に戻りはしても、もう瞳も定まらない正隆は、碌な挨拶もしないで、飛び出してしまった。この不意の出来事で、最初、副島氏が漠然と胸に持っていた、保養の勧告は、緒口も出ないで、立ち消えとなったのである。
温い仕合わせな屋根の下から飛出して、暗い、ガランとした夜を歩きながら、正隆は泣いても足りない気分になっていた。
今まで、何か形の纏らない気体のように、ただ体中に瀰漫《びまん》していた、当のない敵意は、この思いがけない出来事に依って、俄に確かりと凝り固まったような心持もする。その、大きな、むかむかと膨れ上って、喉元まで窒め上げる敵意は、殆ど、生理的な苦痛を伴って、正隆の薄い骨と皮との間を、疼《うず》き廻るのである。
あのようなとっさの間にさえ、突掛って行く相手を、副島氏ではない、夫人に選ぶほどの、敏感を持っている正隆は、あの場合、多くの女性がそうである通り、直き涙を眼一杯に溜た夫人が、しおらしくうなだれでもしてくれたなら、結果は、遙かに容易なものであったことを知っていた。
そうすれば、彼はきっと、もっとしつこく、悪どい厭味は並べるだろうが、余後の気分は、遙に自由であり、且つ、淡い慰藉さえ感じ得たかも知れないのである。
然し、息子ほどの正隆にすねられて、他愛なく涙ぐむほど、副島夫人の経て来た、年は、単純なものではない。卑屈でもない。従って、一目《いちもく》も二目《にもく》も下に扱われたという、取消し難い自覚が、一層、正隆の敵意を助長させる。彼等が、何等かの
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