企計を持ったに違いないことを、夫人の平然さで裏書きされたように、思わずにはいられないのである。

        六

 まるで、ぷすぷすと燃え上らずに煙を吐くような焦躁に、胸一杯を窒らせながら、正隆は翌朝学校に出掛けた。
 出掛けて見ると、正隆は、自分の顔を見る総ての者共は、今朝は、殊更、変な意味ありげな眼付をすることに気が附いた。
 それ等の眼は、一つ洩さず、彼の姿を見付けた拍子に、
「おや! いるな」
という表情を浮べて、さも面白そうにパッと拡がる。それから或る者は、詰らなそうな鼻声で、
「フム、まだ元の通りかい」
と呟きながら、一寸、目配ばせをする。が、或る者は、何か、ひどく馬鹿にしたような、不平な表情を浮べて、肩を怒らせながら、拳を突出すような、素振りをする、心持がある。正隆の眼から見ると、皆が皆、昨夜のことを知っていて、知っている癖にまた皆が皆、知らん顔を装って、ペッと地面に唾を吐いているように思われるのである。
 彼は、誰の顔を見ても、擲《ぶ》ちたいような衝動を感じた。誰の眼を見ても、小突きたかった。自分の心持を、自分でも恐しくなって、暫くすると、正隆は何という当もなく、裏の薬草園の方へ歩き出した。
 もう末枯《すが》れて、花もない園には、柔かい、お婆さんのような芝生が、淡黄く拡がって、横ぎる者を慰める。正隆は、その温順な芝生を心に描きながら、歩き出したのである。
 ところが、狭い小使部屋の傍を抜けて、数十歩歩みを運んでいるうちに、正隆は、自分の目差していた方向に、思い掛けぬ独逸語の音読を聞いて、耳を欹《そばだ》てた。
 重い、彼の国の巖のような発音が、足先をひやりとさせる清い、透明な空気の中に、高く響く。きっと学生が、こっそり予習でもしているのだろうと思いながら近寄って行った正隆は、案外、それは、垣内という、教師の一人の声だと知って、一層の好奇心を煽られた。そして、我知らずそこに立ち止まった。
 年齢も彼とあまり違わない、正直な垣内を、正隆は、他の誰より、浅いうちにも深く交際していたのである。程度に於て、比較的親しいとはいいながら、まだ、一度もその垣内の読む独逸語を聞いたことのなかった彼は、丁度自信ある歌手が、後進の独唱を審判するような、愛と侮蔑の半ばした心持で耳を傾けた。
 けれども、数句を聞いているうちに、正隆の唇は、自然と綻《ほころ》びて来た。
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