出来たら、総ては、幸福に明るく、華やかに終ったであろう。然し、そうは行かなかった。食後暫く経って、夫人が自慢の濃茶の手前をして見せてくれたことが、その作法を全く知らなかった正隆に、地獄のような混乱を起させてしまったのである。
 愛嬌のある夫人が、心持首を傾けるようにして、
「いかが、お茶を差上げましょうか」
と云った時、正隆は、半分は上の空で、半分は、普通の茶だと思い込んで、
「有難う、戴きます」
と返事をした。
 然し、いよいよ改まって、狭い、くすんだ、炉の切ってある坐敷に席を改めて、帛紗捌きが始まると、正隆は俄に周章し始めた。
 書生である彼に、そんな優雅な趣味は教養されていなかった。のみならず、必要だと思ったことさえもなかったのだ。
 今まで、或る時にはコケティッシュだとさえ思わせるほど、明るい燈火の下で華やいでいた夫人が急にきりっと相貌を引き締めて薄暗い炉辺に坐った様子は、正隆に寧ろ冷酷な感じさえも与える。
 彼の周章には見向きもしないように伏目になって、白い額際を鮮やかにさし俯《うつむ》いた夫人から痛々しく眼を反らして、正隆は副島氏を偸見《ぬすみみ》た。唯一の頼みに思って心ではすがりつきながら眺めた副島氏は、これはまた正隆を驚かせるほど泰然と坐になおって、小山のような膝の上には謡でも謡う時のように伏せた双手が行儀よく据えられている。のみならず、総てを飲込んだ落付きで、この憐れな、まごついた正客に眼をくれようともしないではないか。
 正隆は、両面攻撃に逢ったような、頼りなさと、憤りを感じて唇を噛んだ。
 さっきまでの、明るい、楽しい、笑声の渦巻いた世界は、瞬く裡に、けし飛んで、冷い、意地の悪い、疑いが、化物のように根を張った粘土の世界が、恐しい絶望の裂目から、もりもりとせり上って来たのである。
 自分のような書生が、こんな七面倒くさい作法などを心得ていないのは常識で考えて見たって、直ぐ解ることではないか。
 それを、ただの茶でも飲ませるようにして、何心なく誘い込んで置いて――。二人ともが、ちゃんと腹の中で牒し合わせていたに違いないのだ――。
 正隆は副島氏の夫妻がここでは有名な、茶の凝屋《こりや》であることは知らなかった。謡の好きな人が、泣きそうになる相手を前に据えて、心から喜び楽しんで「鉢の木」を一番という心持を知らない彼は勿論、副島夫妻の罪のない喜びを理
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