うな口調で、
「どうですか?」
と、意味をなさない断片的な言葉を吐き出してしまうのである。
副島氏の、この挨拶を受ける毎に、正隆は同じように意味をなさない、微笑を返礼にした。時には、
「有難う」
と云う。
そう云いながら、彼は心の中に、「またおきまりの、どうですか、か!」と呟きながら、苦笑をするのである。
皮肉な気分で、表面は、一片の義理に見えるこの言葉を噛み捨てながらも、正隆の淋しい、荒涼たる心は、事実に於ては、どれほどの温みを感じていたか分らなかった。ただ、彼は、それを示すのが厭なのである。何だこんなもの、という表情をしていたいのだ。けれども、西日に照らされると、まるで茶色の風船玉に、小指でちょいちょい眼鼻を付けたような副島氏の表情は、何の毒も持っていないようにさえ思われる時がある。
心に喰い込んだ疑惑に包まれながら、疑いと信頼と半々な心持で、いつも正隆は、この老年に近い校長を眺めるのである。
ところが或る日の放課後、行くでも帰るでもない正隆が、呆然《ぼんやり》と、図書室の柱により掛っているところへ、思いがけず、副島氏が来掛った。そして、周囲に人のいないのを見ると、いきなりつかつかと近寄って来て、親しく彼の肩を叩きながら、先ず、
「どうですね」
とお定りの口を切った。が、今日は、それだけで終りはしなかった。副島氏は、全く思いがけず、正隆を夜の食事に誘ったのである。
副島氏の言葉によれば、夫人も、彼には逢いたがっているのだそうだ。瞬間、返事に窮すような気分を感じながら、それでも正隆は、明に嬉しかった。
美貌で評判の高い副島夫人が、自分を顧みてくれたということが、正隆の、久しく封じられていた遊戯《いたずら》心を擽る。彼は、その時ばかりは、皮肉さの微塵もない微笑で、承諾した。
長い、退屈な、単調な田舎の生活に飽き尽した正隆の心は、表情の豊かな夫人の美と、抑揚に張りのある、丸い、転る東京弁に慰められて、想像以上に活気づいた。
罪のない饒舌で坐を賑わす夫人と、何時の間にか、一寸した冗談を云い合うほど、彼はいい心持に有頂天になった。厭な、蒼い、捻れた正隆は影を潜めて、快活な、贅沢な、遊び好きな若者が入れ換った。容貌に於て、比較にならない副島氏が、思わず夫人の顔を眺めたほど、それほど正隆は幸福であったのである。
若し、そのままで、副島氏の家を辞することさえ
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