提出されるべき免職沙汰も持ち上らないのは、どういう訳なのだろう。
 若し、ほんとに自分の価値を認めて、留任を願うならば、何より自分には直接な関係を持つ学生に対して、何等か、緩和的な調停が与えらるべきではないか、それだのに、依然として、学生は自分の悪口を云い、解らない言葉を連発して苦しめるままに放任して置きながら、それから逃れる方法として免職させようともしないということは、正隆を考えさせる。
 つまり彼等は、逃路を塞いで置いて、火をかけたようなものではないか。何か、魂胆があるに違いない。必ず、何か、あるのだ。誰かが自分を苦しめて、悶え苦しみ、身をもがくのを見て、そっと舌を出しているに違いないのだ、とさえ、正隆は思い始めたのである。誰だろう?
 誰が、幕の彼方で、この憎むべき悪策の糸を操っているのか。
 正隆は、蒼い額に、切り込んだような縦皺を寄せながら、瞼を嶮しく引そばめて、森閑とした周囲を睨まえるのである。
 暗い、鋭い正隆の直視の前には、いつも、桑の小箪笥と書棚とが、行儀よく、手を入れられて並んでいた。
 まるで、結婚でもしようとする愛嬢に持たせるような亢奮で運ばれた、これ等の女性的な、贅沢な調度を見ると、さすがの正隆も、あれほどの亢奮と愛とで自分を送った母未亡人が、その黒幕の彼方の人物だとは思い得なかった。彼の揺籃の時から、細胞にまで浸み込んだ既定的な愛の信頼は、そこまで延びる彼の疑いを許さないのである。母未亡人でないと確定すれば、最も手近な処から、この探求を進めようとする正隆は、勢い、第二の嫌疑者として、長兄の正則を、牽《ひ》いて来なければならない。
 正則は、どうだろう、
 ここへ来ると、正隆は、蒼白い額を灰色にして腕を組んだ。自分に、今日の位置を紹介した当人として、若し疑えば、疑える場所に、長兄の姿は立っているのである。
 ここへ来させるという、第一の動機は、兄である彼が、作ってくれたものではないか、それ故、若し彼が、自分を陥入れようと計画したとすれば、もう、その最初の第一段から、呪うべき悪意が、親切らしい「兄」という人間の手に隠れて、前途に投じられたとも、云い得るのである。
 また、実際、親子ほど年の違う兄弟は、年齢の差以上に、母未亡人の偏愛によって、互の親密さを薄められていたのは、事実である。
 長兄が、もう一人前の青年になった頃、誕生した正隆は、連絡
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