を、半ば途切らせたまま、止途もなく涙をこぼし始めた。
涙がこぼれ出すと一緒に、未亡人の感じは悉く一変した。今までは、何か陰険な、凄い、心持の悪い老婦人のように見えていた未亡人は、急に、親しい、見なれた涙脆い母親となって、正隆の前に現われたのである。
ホロホロと光って、膝に落ちる涙を眺めながら、正隆は血の気の失せた顔を引歪めた。醜いというのだか、恐ろしいというのだか、それではあまりひどすぎるという感じが、泥を口一杯突込まれたような胸苦しさで、正隆の心に迫っていた。
ほんとに、事実に、そんなのが、所謂世間なのであろうか、それほど悪意と、嫉妬と、猜疑に満ちて、食い合いをする世の中なのか?
さすがの正隆も、うんそうだ、とは思い兼ねた。疑いを挾まずにはいられないほど、母未亡人が、棒切れにかけて、挙げて見せた幕の彼方は、暗澹としていた、どこにも光明が差してはいない。一面の、真暗闇である。その暗闇の中を、芝居の「だんまり」のように、徐々と窺《うかが》い寄る奸策を、また、こっそりと構えた術策で身を替す世の中は、若しそれを事実とすれば、あまりに堪らなすぎるものではないか。
然し、母未亡人の言葉によれば、地位の高さと、名声の範囲に応じて、それ等は、拡大されるばかりだというのである。
正隆は、思わず、
「お母さん」
と云った。が、そのままぐっと窒《つま》ってしまった。彼は、何か一言で、その暗闇に何等かの余裕をつけたかった。出来ることなら、一思いに、そんなことばかりがあるものか、と勇ましく否定してしまいたかったのである。が、彼はそうするだけの力がなかった。何より大切な、魂そのものの本然の力が乏しかった。
彼は、母未亡人の胸に巣喰っている、人間だけを騙《たぶら》かす小悪魔の尻尾《しっぽ》を見ることが出来なかったのである。
実際正隆は、或る程度までの放蕩児であり、小さな意味の皮肉家でもあったが、日常生活を構成する平和な余裕が、そこまで彼を、否定的な、氷島のような観察者にはしていなかった。
勿論、彼は騙されたこともある。また、自分に騙される程度のものを、嘘で片付けたこともあった。生活そのものを、火花を散らす激烈なものとして考えていない正隆は、総てを、程々な生温《なまぬ》るさで味っているのである。善と、人が呼ぶものに対して、燃える感激を持たない彼は同時に、悪と呼ぶ者に対して、寛大
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