な、或は無関心な主人であった。
多くの人々が、そうして、一日一日を送っているように、善と悪との、互い違いの出現を一重隔てた彼方に眺めて、薄すりとした暖みを、あらゆる相互関係に感じているのである。よいことも、また、悪いことも、それ等は、総ての幸、不幸、運、不運を包合して、錯綜しつつ起るものではあっても、絶対の自分の安定には、要するに、微力な影翳《かげ》となるに過ぎないと思い込んでいた正隆は、愈々、その信念を、試みられようとする時になって、殆ど、根本的な打撃を与えられた訳なのである。
性格の持つべき力の欠乏から、正隆は、生命を賭しても敢行した、真実さの爆発に対しては、弱い、皮肉な冷笑を以て齎しながら、所謂人情の、交感的な微温《ぬくもり》を否定することは出来なかった。
その人肌の微温を四囲に感じていればこそ、始めて、正隆には息がつけた。彼の冷笑は、決して、故意に自分を陥入れようとする奸策に向ってまで、平然と放たれるほど、力強いものではなかったのである。
彼が考えた、羨望というものは、単に彼の幸福と、その他あらゆる彼の仕合わせを裏書きするものとしてのみ現われたのである。
奸策――。正隆は、急に世の中が寒くなったような眼を挙げて未亡人を眺めた。奸策。彼の、贅沢な、物懶い横目では、もうどうにも、負わされない一種の力、何か不気味に因縁的な、陰気な意地悪いものが、心の奥からしんしんと湧き上って、自分の周囲を立ちこめるのを感ぜずにはいられなかったのである。正隆は、今まで、ほのかに、柔らかく、甘えつつ馬鹿にしていた世の中というものに、運命のような畏怖すべき何物かを感じた。
その掴めない、形の定らない、それでいて、何をするか解らない予感は、正隆を、ぞっとさせる。母未亡人の説明通りだとも、信じ兼ねながら、そうかといって、それを拒絶するだけの、証を自らに持たない正隆は、不安な、落付かない懸念《アンキザエティー》の横木に、吊り上げられた。が、然し、彼は、もう後へ引くことは、不可能な心持がした。
翌日、正隆は幾個かの荷物と一緒に、校長の副島氏に贈るべき、大花瓶の箱を抱いて、南に下ったのである。
三
母未亡人の、単に比喩ではなく、呪うべき警告に、ぞっと心を縮めながらも、まだ若い正隆は、さすがにこれから自分を迎えようとする圏境には、多少の光輝を認めずにはいられなか
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