し、瓦や銅板に墨で書かれた住所や氏名は、程なくそれを書いた者の手で苦もなく洗われてしまったのである。

 こうして、蚕を飼ってため、糸をひいてためたへそくり[#「へそくり」に傍点]を微妙な道ゆきで吸いとられつつ、人々は渋の温泉や上林の電鉄ホテルにのぼって来て一泊をする。
 温泉場を貫いて往復する自動車は、どれも泥よけをつけていない。長野県ではそれでよい規則なのかしら。おとといのような泥濘《ぬかるみ》になると、おそろしく泥の飛沫をはじきとばす。櫛比した宿屋と宿屋との軒のあわいを、乗合自動車がすれすれに通るのであるから、太い木綿縞のドテラの上に小さい丸髷の後姿で、横から見ると、ドテラになってもなおその襟に大輪の黄菊をつけている一群は、あわてて一列縦隊をつくり、宿屋の店先へすりついて、のろのろと進むのである。
 駅の横手に林檎畑があった。背面の濃い杉山には白い靄が流れている雨の晴れ間に、濡れた林檎が枝もたわわに色づいており、山内劇場と染め出した浅黄の幟が、野菜畑のあぜに立っていた。
[#地付き]〔一九三六年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和5
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