ると、それ等の文学的エポークには、それぞれに動いた作家が、自身の動きの激しさと性格とを作品に出して先ずそこで動きがおのずから表明されて来ていた。ネオ・ロマンティシズムという名は、谷崎潤一郎の「刺青」という作品に絡めて以外に私たちに与えられていない。文学において、作者の動きは、いつも作家が作品を体につけて躍び上るなり舞い下るなりしていた。日本における自然主義の消長として荷風の社会批評精神の舞い下りは「嘲笑」ぬきで語れないし、宇野浩二の新しい文学の世代としての第一歩の飛躍は「蔵の中」ぬきに云うことが出来ない。従って、その体に作品をからみつけて、或は腹の中に蠢《うごめ》く作品の世界にうながされて体を動かさざるを得なかったこれまでの作家の動きは、作品と作家の動きとの間に必然の統一が保たれていて、作家が動くということはとりも直さず文学が新しい自身の動きを経験するという現実をもたらしたのであった。
 ところが、一九四〇年という年になって作家の動きと作品の動きとの関係は、非常に特殊な分裂を示した。作品はその自からなる生成の密度で比重が重く沈澱して左右水平の動きを示している上で、作家が体一つで上下動的
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