不安と焦燥の気分が文学界を満した。この雰囲気は、村山知義の「白夜」によって先頭をきられた一系列の作家の作品の出現によって愈々《いよいよ》暗鬱なものとなった。転向文学という一時的な概括で云われたこれらの作品の特徴は、知識人としての作者たちが時代の中に経た生活と思想経験の歴史的な価値と意味とを我から抹殺して、一つの理想に対して脆く敗れた自身の懺悔と哀傷とを懺悔風に描いたところにある。日本の文化の歴史と、その中にある知識人というものの経歴は、西欧の伝統とはおのずから異った社会的特色をもって刻々現れるのであるが、当時これらの作品の作者たちは、そのような歴史の社会的な特質にまでつき入って時代の貴重な文学的主題を展開はさせ得なかった。あくまで個人の性格や事情と公的なものと観念化されていた一つの想念とを対立させて、そこで敗れた人間性や良心の課題の範囲で扱われたことも、日本の知識人の歴史の性格を雄弁に語っていることであった。しかも、当時一般の心理は、このような歴史的文学の題材とテーマに対しては極めて複雑にふれて行っていて、一定の経歴をもった作者たちが自身の傷敗の歌を痛ましげに呻けば呻くほど、人間性の流露としてそれを高く評価したい感情の傾きにおかれていたことは興味ふかく回想される。或る種の眼には実にわがもの顔に文学の領域を踏みあらしていたと思われる左翼の文学が、今やそのような形で自身への哀歌《エレジー》を奏している姿は、一種云うに云えない交錯した感覚であったろう。
転向文学と云われた作品はそれぞれの型の血液を流したが、それは健康恢復のための射血ではなくて、時代の壊血症状というべき実況であったから、いかにその懺悔に痛痒き感覚を刺戟されたとしても、これまた新しい生活への飛躍の足がかりとはなり難い本質である。
精神の空虚の感じが瀰漫し、その空虚の中で何かを捉えようとする焦燥は激しく自覚された。そして、ここから不安の文学という名が立ち現れて来たのであった。
不安の文学は、当時知識人にとって現実は不安であるから、飽くまでその不安を追究せよ、という立て前に立てられた。目をそらさず瀰漫した不安を追究せよ、と云われたその言葉は雄々しげであったが、果して、それらの人々は不安を凝視してそこから何か新しい途を見出す社会的・文学的なよりどころを客観的に包蔵していただろうか。
不安の文学という声は、先ずそれを唱える人々が、その不安を追究する方法をもっていないことで忽ち深い混迷に陥った。社会と文学との感覚で不安は感じられているのだが、不安の彼方に何を求めて、どう不安を克服しようとしているのかと云われると、その答えは不確なものたらざるを得なかった。不安への批判の精神を否定した出発は、窮局に於て人間精神が不安に翻弄される結果となり、不安を自己目的として不安する状態を、精神の高邁とするようなポーズをも生じた。人間のモラルを現実とのとりくみの間にうち立ててゆくことが目指されずに、観念の中でモラルを模索しているその自己の意識の周囲を我と眺め味い歩きまわる作家の態度は、当時横光利一によって代表された。彼の云う「高邁なる精神」「自己探求」「自意識の文学」等の標語は悉く、以上のような当時の文学精神によったものであった。
「新興芸術派」時代「主知的文学論」をもって立った阿部知二の「知性」の本質も根本に於てはやはり横光利一の「高邁なる精神」と同様に、現実的な人間像への芸術的肉迫を回避して、自我の意識の中で主観的に或はロマンティックに感得されている知性である。文学の傾向としてこの二者が当時相呼応するものとして現れたのには当然の理由があった。
この前後に小林秀雄が評論家として生い立って来たということもまたまことに時代的な特徴を完備している。「批評とは己れの夢を語ることだ」というのが、当時の小林秀雄の思想の背景であって「あらゆる人間的真実の保証を、それが人間的であるということ以外に、諸君はどこに求めようとするのか? 文芸批評とても同じことだ」「プロレタリア派だとか、芸術派だとか云ってやぶにらみしているのは洵に意気地がない話である。」あらゆる芸術は精密な観念学に外ならない。そしてその観念学は常にその人々の全存在とその人の宿命にかかっているとする小林秀雄は、あらゆる芸術家と作品の中に「人間情熱の記号」「誠実な歌」「人間的なるもの」を掘り出すことを職務として表明したのであった。しかしながら彼の云う人間の全存在、或は宿命とは、その実質に何を指しているものであったろうか。芸術は人間的血肉の所産でなければならないという普遍性は、彼を待つ迄もなく古き一般論の土台である。彼の「観念学」はその倚ってかかっている特定の全存在、宿命の具体的な相貌を解きほぐす点になると遺憾ながら全く無力で、「作家が己れの感情を自ら批評するということと、己れの感情を社会的に批評するということと、現実に於てどこが違うか」と、いかにも当時の文学雰囲気の嫡子らしく、自己というものの社会性には目をそらしているのである。彼の現実認識のよりどころは個性の感性に置かれているのであったが、その感性そのものも「オフェリア遺文」が計らずも告白している通り統一された具象性を持たないものであった。「言葉というものは、こんがらかそうと思えばいくらだってこんがらかすことが出来ます」「あゝ、此世は空し」「問題を解くことゝ解かないこととは大変よく似ている」このようにして評論家としての小林秀雄は、対象の本質の核心に迫ってそれを明らかにし得ないまま、対象の感性的な印象の周辺をかけめぐることとなった。その果のない駈けめぐりの姿を精緻ならしめ、豊かならしめようとして、表現の逆説的な手法を己れの特色とした。小林秀雄の文芸批評が、当時から一般読者に迎えられるようになったのは、それが時代と文学の在りようを解明する力を持っていたからではなくて、その力を失った所謂知性の時代的なスタイルそのものが共感をもたれたことが最大の原因である。
この評論家と横光利一の「高邁な精神」とは、紛れもない時代の双児であった。この作家と評論家とは手をとり合って、自意識の摸索を続けた結果、遂に横光利一の純粋小説論に辿りついた。
文学に於ける自我の探究が自我を自己目的とした時、現実関係の中に生きている人間像は作家の内的世界から失われる。そして、自意識は主我的にのみ発動することとなり、「自分を見る自分」と云う新しい存在が作品に登場し、横光利一はそれを第四人称と名づけた。ところで四人称の自我は、現実の認識と実践との統一の破れた象徴として現れているのだから、如何に見ている自分[#「見ている自分」に傍点]があろうとも、生活者としての自分、生活現象としての人間関係のすべては、そうやってただ見ることを目的として見ているだけで無力な自分には拘りなく刻々と移る日常の波に押されるままのものとして追随されざるを得ない。ここから、四人称という観念の発明が提出されているにも拘らず、作品の主調はあり合わす現実に屈服して全く通俗化の方向を辿るばかりとなった。
観念的な用語の上では一見非常に手がこんでいるように見えて、内実は卑俗なものへの屈従であるような現実把握の芸術化の過程に於ける分裂は、その頃「癩」「獄」等によって作家としての活動を始めた島木健作の芸術にも独自な姿で反映している。
石坂洋次郎の「若い人」の芸術性にもこれが貫いている。この二人の作家の時代的な本質については、後にやや詳しく触れることとして、当時のこのような心理は、他の角度に於て武田麟太郎の市井小説の提案を生む動機となった。『人民文庫』による、武田麟太郎は、西鶴が市井生活のリアルな描写をとおして十八世紀日本の所謂元禄時代の姿を今日にまざまざと伝えていることに倣って、現代の市井のあれこれの営みの姿を描き、市井の「現実にまびれ」て生きることでその中から観念の戯画でない人間くさい小説を生み出そうとした。しかしながらこの創作の態度も、現実を観てゆくよりどころを明確にし得ない時代の本質を骨格のうちに分けもっているために作品の実際に当って風俗小説以上に作品の世界を高めることは困難であった。この時期に現れた永井荷風の「ひかげの花」谷崎潤一郎の「春琴抄」等が与えられた称讚の性質も見遁せないものを持っている。先に文芸復興の声と共に流行した古典の研究、明治文学の見直し等が、正当な方法を否定していたために、新しい作家の新しい文学創造の養いとなり得なかったことを見て来たが、この過去への瞥見が谷崎、永井、正宗、徳田など、最近の数年間は活動の目立たなかった自然主義以来の作家たちの創作慾の甦りとして作用したことは興味深い事実であった。「ひかげの花」にしろ「春琴抄」にしろそれぞれの作家の年来の特色を年来の色調のままに発揮したものであり、特に「春琴抄」は物語の様式をつかわれて、同じ耽美的の被虐性を描くにしても往年のこの作者が試みた描写での執拗な追究、創造は廃されている。
谷崎潤一郎がこの作品に触れての感想で、自分も年を取ったせいか描写でゆく方法が億劫《おっくう》になって来たという意味の言葉を洩し、創作態度としての物語への移行が、作家としての真の発展を意味しないことを言外にこめている。当の作者がそのような自覚に立っているにも拘らず「ひかげの花」もこの作品も、さすがは叩き込んだ芸の巧さ[#「叩き込んだ芸の巧さ」に傍点]と云う点で甚だもてはやされた。芸の巧さということが、切り離されて人々の口の端に喧しく取上げられ始めた。作家に一定の技術が求められることは当然であるけれども、人間の現実をうつすものとしての内容の本質的な属性として扱われずに、技術という抽象的な游離で云われることは、かつてプロレタリア文学が世界観と形式とを切り離されたもののように示したことが誤りであったと同様に、芸術性の本質を離れた観方である。しかしながら、当時の人々が芸にとらわれてゆく心理は、小林秀雄の評論にも、横光利一の小説論にも、また川端康成が「水晶幻想」に赴いた足取りの中にも十分窺えることであった。「文章読本」の流行が始まった。
芸への愛好を伴う現実批判の衰退は随筆の流行をも招来した。内田百間の「百鬼園随筆」を筆頭として諸家の随筆が売り出されたが、これは寧ろ当時の文学の衰弱的徴候として後代は着目する性質のものなのである。
三
以上のような諸現象が、一部の作家の間に文学の危期としての警戒を呼び醒したのは極めて当然のことであったと思われる。
荷風の「ひかげの花」に対する余りの好評が、却ってその好評の本質への疑問を誘う機縁となったことは興味がある。「ひかげの花」に於ける永井荷風の人生への態度は、このようにして生きる一組の男女もある、と云うことの巧な描写に止っている。作品を貫いて流れているものは荷風年来の諦観である。その諦観にふさわしく統一された芸[#「芸」に傍点]の巧さがあるにしても、若い作家たちまでがその驥尾《きび》に附して各自の芸術の行手にそれを仰ぐとすれば、それは奇怪と云わなければなるまい。当時の文学の混乱もこの頃云わば底をついた形となって、漸々観念的な不安に停滞することも、荷風の境地に寄食することも許すべきでないとする一種の見解、気力が生じ始めた。作家の精神と肉体とは現実に向って先ず活々と積極性をもって動き出さなければ文学に新生命はもたらされまいと云う要求が起った。当時のフランスの文芸思潮の積極的な動きがN・F・R誌などを通じて日本へもその影響をもたらしたこともある。「行動主義の文学」「能動精神」が雑誌『行動』を中心として、舟橋聖一、豊田三郎、田辺茂一等によって提唱された。
満州事変以来四年を経て、その年(昭和十年)は日本の文化が新たに遭遇しなければならないめぐり合わせについて、美濃部達吉博士の問題その他をめぐって、一層痛切に感じられた時でもあった。文化の擁護、知識の健全性の防衛と云う一般の要求が能動精神の提唱される一つの社会的雰囲気として槓杆《こうかん》の役目をした。文学以
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