前の問題として一般に感じられたこの槓杆の行動的なまた能動的な押し上げは、行動の目的のある一貫性にまたなければ現実性を与えられないのであるが、当時、行動主義を唱えた作家達は、それぞれの属している社会層の小市民的な動揺性に於て数年来の不安混迷の空気を自身たちの身に滲みつかせており、そのことから、批判の精神を求めながらもそこに過去の文学への理性的な批判を持ち得なかった。このことは行動主義の文学と名づけられた動きに一定の文学理論を与えることを不可能にしたし、ひいてはその創作方法も明らかにされず、この提唱の下にどのような作品が生れねばならないかと云うことは、グループ内の作家たちにとっても判明しなかった。行動主義文学は、発生の根源に於て広義には純文学の血脈をひいたものであり、その意味で当面の文壇的利害に制せられる多くの要素を含んでいた。同時に他の一面では「ひかげの花」に文学的反撥を示したその前進的な方向がおのずから語っているようにプロレタリア文学の時期を経過した後の見解に立っているために、その方向に対してこのグループが示した一つの明瞭な限界に対して下される大森義太郎などの批判に対しても闘わなければならなかった。
もし行動主義を唱えた人々が過去の文学と各自の社会人としての閲歴に理想的な批判を向けることさえ出来たならば、大森義太郎のように、嵐が通ってしまってから洞を出て来て、あの嵐のふきかたはどうこうというような批判は、正当に克服しつつ自身の文学的成育を遂げることが出来ただろう。しかしながら、当時このグループの人々は自身の成育の核をそこに見得なかったため、自然動きは文壇内のグループ的な対立に終始しなければならなかった。独自の文芸理論もないために、その能動性は作品の現実では、素朴な行動性《アクティヴィティ》の方向をとらざるを得ず、その行動も社会的な客観性を避けているためにつまりは在り来った両性関係のうちに表現された。而も、両性関係における行動性というものも、本質に於ては日本旧来の男の恋愛行動のままの延長であったことは我々を深く考えさせる点であると思う。
能動精神という声はフランスにも日本にも聞えており、何か文化の希望を約束するかのようではあったが、現実のあらわれでフランスと日本とは全く異った結果をもたらした。
日本文学に響いた能動精神は、社会的行動の面で一貫性をもち得ない必然をはらんでいたこと、従って文学として理論をも持ちかねたことから幾何もなく『行動』も廃刊となって、その標語は文学におけるヒューマニズムという広汎な野づらへ押し出されたのであった。
考えてみれば、人類の文学の歴史の中にこのヒューマニズムという声は幾たびか意味深くくり返えされて来ている。ヒューマニズムという言葉をきいた時、誰の胸にも浮ぶのはヨーロッパ文化に於ける文芸復興時代のヒューマニズムの多彩な開花であろう。ルネッサンスは中世の思想と社会が人間に強制していた種々の軛《くびき》からの人間性の解放を叫んで、社会文化の各方面に驚くべき躍進を遂げた時代であった。
降って十八世紀の西欧に於ける人文主義も封建の封鎖に対して人間性の明智と合理とを主張した広義のヒューマニズムの動きであった。引続く世紀に例えばトルストイによって表現されているヒューマニズムは、日本の『白樺』の精神にも流れ入って来た。言ってみれば芸術の本質はヒューマニズムをその不可欠な一つの足場としていて、それぞれの時代にヒューマニズムというものは歴史の発展の段階をまざまざと反映しつつ推し進んで来ているのである。非人間的な条件に対して人間性の尊貴を主張するこの人間の要求は、それ故、各時代に異った要素をその実質に加えつつある。一九三五、六年以後新しい情熱で世界の感情の中に燃え立ったヒューマニズムへの要求は、明らかにこの要求の反面に人間性を重圧する社会事情の存在を意味していた。そしてヒューマニズムが真のヒューマニズムであるかぎり当然そのものとのたたかいが予想されていたのである。
能動精神の提唱に続いてヒューマニズムの問題をとりあげた当時の日本の作家たちは、この一つの声の中に数年来の社会的・文学的諸課題を投げ入れて社会感情の統一体として提出したのであった。
今日実に意味深く顧られることは、このヒューマニズムの提唱に際しても多くの人々は能動精神、行動主義に対して示したと同様の理解の限界から脱し得なかった点である。先に能動精神がいわれた時、文学以前のものとして在るこの課題の実現のためには、社会行動に於ける一貫性が必須であることを理解し得なかった一部の人々、独自の文芸理論がないことから文学の収穫としての作品がみるべき成果を示さなかったと全く同様に、ヒューマニズムの課題の究明と展開とに際しても、「人間再生の要求の無制約的な承認」ということが強調された。従って、現代のヒューマニズムが日本の旧来の東洋的諦観を根底に横たえた自然主義的な現実への屈服や、誤った客観主義とたたかって、益々色濃く迫っている悪時代を人間的に生きぬこうとするためには、ヒューマニズムの文学は社会の客観的理解によっても特性づけられなければならないという現実的な面は、一部の人々によって論ぜられながら、ただ、それは論ぜられているという範囲に止まった。そして「現代のヒューマニズムは、特に理論への情熱として示されねばならぬ。」「抽象的なものに対する情熱こそ、今日ヒューマニズムが強調しようと欲するものである。」というような見解が広い影響を持った。
ここに於て私たちは今日明瞭に次のことをみることが出来ると思う。即ち、当時のヒューマニズムの提唱さえも既に不安の文学といわれた時から現代日本文学の精神に浸潤しはじめた現実把握と理念との分裂の上に発生しているものであったという事実である。
ヒューマニズムを求める社会感情は、当時極めて一般的な翹望であったに拘らず、そのような抽象性へはまり込んでつまるところは観念の域を破れなかった理由もまた複雑なものがあったと思う。能動精神の文学が、歴史の現実ではプロレタリア文学の時期の後に生まれている必然を避けて過去の文学を理性的に批評し得なかったために自身の成長の道を見出せなかったと同様に、ヒューマニズムの提唱に於ても無制約な人間再生の要求の強調された心理の根底には、やはり現代ヒューマニズムが歴史的な現実把握と理念との強力な統一を予想しているという核心をおのずから避けて、「人間中心の心情」一般を肯定する安易さに陥った。
この文化上意味深い事実は、当時、文芸評論が急速にその論理性と科学性とを失いつつあったという現象によっても裏づけられた。何という奇怪なことであったろう。ヒューマニズムの文学というような豊かで範囲も広い筈の提唱が起っているのに、まさにその時、文芸評論はその理論性を失って独白《モノローグ》化し随筆化して来ていることが注目されたというのは当時の日本文学のどういう悲喜劇であったろうか。
この時期ナンセンスな流行歌と漫才とエノケン、ロッパの大流行をみたのは、人心のどんな波動を語っていたのだろう。
ヒューマニズムの歴史性そのものが内包していた方向から目をそらして無制約に人間中心の唱えられたことは、文学に雑多な個別的な花を開かせたが、例えば尾崎士郎の「人生劇場」にしろ、川端康成の「雪国」にしろ、各人の芸術完成の一定段階を示しながら、作者自身にその完成の歴史的な意味を自覚させるために役立つ力は持たなかったのである。
ヒューマニズムは単なる生命主義ではないといわれつつも当時北條民雄の「いのちの初夜」その他が生の緊張の美として一つのセンセーションを起し癩文学という通俗の呼び名が作者たちの忿懣を招いたこともあった。
現代のヒューマニズムは頽廃の中にあるとする高見順は、「描写のうしろに寝ていられない」という自身の理解から「十九世紀的な客観小説の伝統なり約束なりに不満が生じた以上は、小説というものの核心である描写も平和を失った。」と説話体の手法をもって現れた。この作家が、頽廃の中にさえヒューマニズムをみようといいながら、描写への疑問の理由を、「客観的共感性への不信」に置いていることも私たちの注意を惹くところである。形式を文学の内容の特殊なモメントとして観察する場合、高見順によって始められたこの説話体は、その物語の形式に於て失われた自我の姿が反映していることも意味深いし、評論が当時独白化しつつあったと同じ理由で、人間像をそれなりの現実で再現する力を失って、現実の物語り方に独自な主観の色調を主張しようとしたところも、頽廃のうちにヒューマニズムを打ちたてるというよりは、むしろヒューマニズムの頽廃の一つの型ではなかろうか。なぜならヒューマニズムは古来、つねにより広い人間性の客観的な共感に拠り立っているものであるのだから。
石坂洋次郎の「若い人」、「麦死なず」等の迎えられた時代的な性格も面白い。江波恵子という特異な少女がその少女期を脱しようとする奔放な生命の発動に絡んで、間崎という教師、橋本先生という女教師等が、地方の一ミッション・スクールと地方的な文化を背景として渦巻く姿を描いた「若い人」が、多くの読者を惹きつけた原因の第一は、作者のエロティシズムと地方的な色の濃い描写とで描き出された江波という若い娘の矛盾錯綜してゆくところを知らない行動と情感が、ある意味で、所謂人間性の無制約な肯定として現れている当時のヒューマニズムの傾向に相通じる一脈をもっていたからであったと思う。「麦死なず」にしろこの「若い人」にしろ、作品の世界は、その中の主人公たちが常識と一種の卑俗さによって敗北している通りに、作者の根強い常識によって人間性の把握はどたんばで通俗に落ちこんでいるのが特徴である。
尾崎士郎の「人生劇場」がこの作者としてのある達成を示しつつ作品にもられている人間情感の性質に於ては古い日本の人情の世界に止まっていることも思いあわされる。高見順と共に新人として登場した丹羽文雄の作品などもその世界に生きる人間群の現実的な生活のモティーヴだの動向だのという面からの観察は研ぎ込まれていず、人物の自然発生な方向と調子に従って、ひたすらその路一筋を辿りつめる肉体と精神の動きが跡づけられている。傍目もふらぬそれぞれの人間と事象との在りようを、作者がまた傍目もふらず跟《つ》いて行く、その熱中の後姿に、文学に於ける人間再生の熱意、ヒューメンなものが認められるという工合でもあった。
知性の作家と呼ばれた阿部知二がこの時期に発表した「冬の宿」も、この点でいかにも時代的な所産であった。作品の中で人間性の濃度を高めるためにこの作者は意企的に異常性格を持った嘉門とその妻松子、娘息子をとり来って、殆どグロテスクな転落の絵図をくりひろげたが、この作品の世界に対して作者は責任を感じていず、登場している私という中枢の人物は、本質的には作者と共にその転落の過程の報告者としての存在をもつに過ぎない。
山本有三の「真実一路」もやはり真摯に生きてゆく意図は自覚されながらその具体的な見透しとしての方向や方法がはっきりしないで、目前の事象と必要との中に一生懸命な自分を打込むという姿で主題は途切らされている作品である。人生的な態度をもった作家として五、六年前には「女の一生」をおくり出すことが出来たこの人が、当時の「真実一路」に於ては、真実が主人公の素朴な主観の内にだけ感じられるものとしてしか描き出せなかったということは、やはり当時の社会的雰囲気と謂うところのヒューマニズムの無力とを語っていると思われる。
ごくあらましな以上の観察によっても昭和十年、十一年頃に於ける文学が面していた矛盾困難と混乱の有様は十分理解することが出来る。
広津和郎がこの時代的な文学の紛糾摸索に対して「散文精神」を唱えたことも興味がある。「新しい散文精神は現実当面の問題――アンティ文化の嵐に直面して(中略)よくも悪くも結論を急がずに、じっと忍耐しながら対象を分析してゆく精神(中略)結論を急がぬ探究精神こそ」現代作家にとって
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