の誕生にも影響した。それまでの婦人作家が概して有産的な環境の中から生れ出ているに対して、この時代の潮は勤労的な生活の中から婦人作家を誘い出して、窪川稲子の「キャラメル工場から」等はその代表的なものだと思う。
そのような文学の動きは、新しい社会的な素地から作家と作品を成長させて来たばかりでなく、当時既に作家としてある程度の活動と業績を重ねた作家たちをも、各自の角度に従ってこの文学運動の中に引き入れた。先に触れた藤森成吉、秋田雨雀のほか片岡鉄兵はかつて属していた「新感覚派」から転じて「綾里村快挙録」を、細田民樹は大衆的作家の傾向を持ちつつ「真理の春」を、宮本(中條)百合子は人道主義的なリアリズムの道を、新しい段階に踏み出した。
興味あることには、この時代の旺な脈動が、例えば上司小剣、島崎藤村、或は山本有三、広津和郎等に案外の反映を見出していることである。
明治文学の記念塔である藤村の「夜明け前」が執筆され始めたのは昭和四年、新しい文学の波の最高潮に達した時期であった。明治のロマンティック時代から作家生活を辿って来たこの粘り強い小説家が、云って見れば彼をもその波の下に置こうとするような時代の激しさに向い立って、勇猛心を動かされ、歴史と云うものを改めて見直す欲望から維新を背景とするこの長篇を書いたことは面白いと思う。そしてまた、この長編が極めて緻密に史実を調べられ、思想的背景をさぐられ、人物の配置も客観的にされながら、窮極には作者藤村の内面的なムードで統一されていて、その意味からはやはり主観的な写実を脱していないということも面白い。
人道的な感情で作品を貫いて来た山本有三が、当時を中心として彼の作品の中でも社会的意味の深い「波」「風」「女の一生」等を生み出していることも見のがすことは出来ない。上司小剣がこの時代から一大長編「東京」を思い立って四部作の第三部までを書いたということも、ゾラに「パリ」があるからというのが執筆の動機ではないであろうし、震災で古い東京が失われたからという回顧が興味の中心でもなかったことは推察される。社会生活の渦の真中としての東京がこの作家の眼をひいた時代的なものも感じられるのである。
この時代に広津和郎の「女給」が現れた。一面から見ればこの作品はこの作家の連載物への動きであるが、「女給」というものが現代の日本の社会で経ている在りようを、享楽の対象としてではない面から描こうとされたところに、単なる通俗性への屈伏以外のものがある。「田園の憂鬱」の作者佐藤春夫の「心驕れる女」という連載物に登場する人物にさえ時代の空気が流れ入っていることは、一つの例に過ぎず、当時は通俗小説の中にさえも新しさの象徴として時代的な青年男女の動き、心持ち、理論などと云うものがさまざまに歪曲されながら装飾として或はあや[#「あや」に傍点]として取り入れられたのであった。
この間にも新しい見地に立っての芸術価値評価やその創作方法に対しての反撥は決して消されなかった。「新感覚派」は既に文学上のグループとして解体していたが、昭和五年に出来た十三人倶楽部による「新興芸術派」の運動は、中村武羅夫の「花園を荒す者は誰だ」という論文を骨子として、反プロレタリア文学の鮮明な幟色の下に立った。同人としては中村武羅夫、岡田三郎、加藤武雄、浅原六朗、龍胆寺雄、楢崎勤、久野豊彦、舟橋聖一、嘉村礒多、井伏鱒二、阿部知二、尾崎士郎、池谷信三郎等の人々であった。中村武羅夫の論文がこの運動をまとめるきっかけとなったことは興味がある。自然主義の系統から出発して、雑誌『新潮』によりながら、作品活動としては大衆作家として存在しているこの人が、文学の芸術性、その至上性というものについての論議に触れると常にピューリタン的な擁護者として立ち現れることは、一つの芸術の分野ならでは見られない現象であろう。「新興芸術派」の主張するところは、文学についての新しい社会的な理解が持ち来している、作品の世界観の問題、社会的効用の問題、形式が内容に対して従属的なもののように見られている点等を非難して、それらの束縛、圧迫から解放された新興の芸術派をうち立てようとするところにあった。しかし、そのような新興の芸術として、どのような解釈の芸術性が見透されていたかと云えば、そこには同人達にとっても一口に説明し得るような一貫した新見解はなかった。往年の「新感覚派」はフランスやドイツの大戦後の芸術流派の影響の下に、表現の上にも横光利一の当時の作品のようにともかく奇抜であることだけは誰の眼にも明らかな試みをもったが、時を隔てて今現れた「新興芸術派」は大体の傾向として当然都会的なモダーニズムに立ったが、同人たちの作品の現実は、彼らによって否定された「新自然主義的なプロレタリア・リアリズム」を覆すだけの力を持たなかった。同人たちの作家としての活動は、プロレタリア文学に反対であるという一事では、その社会的な生活感情を等しくして結ばれていたが、その他の面では云わば各人各様で、或る作家は芸術至上を説き、或る作家は科学・機械文明との新しい結合で文学を見ようとし、或る人は新心理派へ眼を向け、作家の資質に従ってエロティシズム、グロテスクな追求も行われた。
この「新興芸術派」がその文学的な対立物であったプロレタリア文学運動の消長と共に、その後の二三年間に解体したことは、その後今日に到る間にかつての同人たちが辿り来っている作家としての足どりと眺め合せて、感想をそそられるものがあると思う。
今日知性の作家と称せられている阿部知二、行動主義とヒューマニズムを唱えた舟橋聖一、「人生劇場」によって自身の世界を作った尾崎士郎、「多甚古村」の作者である井伏鱒二等が、やがて一昔の十年前は、この「新興芸術派」に参加していたことも、さまざまの意味で顧みられることだと思う。
二
満州事変は昭和六年に起った。この事件を契機として日本では社会生活一般が一転廻した。昭和七年春、プロレタリア文学運動が自由を失って後、同八年運動としての形を全く失うに到った前後は、日本文学全般が一種異様の混乱に陥った。
例えば前に述べた新感覚派、新興芸術派などの場合についても分るように、この社会の知識人としての作家たちの自分の存在に対する自覚、確信というようなものは、文学上対立するものがあってこそ自分に確かめられていたようなものだったとも云える。文学上のその対立物が目前で蒙った破壊の有様の目撃は、知識人としての心理に於て、それを誹謗した作家たちにも不安と動揺とをもたらさずにいなかったことは明らかである。
当時叫ばれた文芸復興の声は、プロレタリア文学の陣営に属していた人々の間から上った。しかし、その復興さるべき文学は、文学一般を漠然とさしたのであって、過去十年の間に重ねられて来た新しい文学の見解を継承し発展させようとするものではなかった。現実の認識の方法とか芸術の基準とか、そんなものはどうでもいい。作家は書いてさえいればいいのだ。書きたいように、書きたいものをさあ書いた、書いた! という風な調子で押し出されたのであった。
外部からの圧力と共に、文学上の問題としては、かの芸術性の究明が不十分のまま、創作の実際に当って内容と形式が分裂したような形で作家の前にあらわれていたために生じた一種の困難、及び積極的な生活の日常的な現実と作品の創作される過程としての創作方法の解釈の間に見られていた関係の機械的なところなどが相俟って、ある困惑に陥っていた当時のプロレタリア作家は、この埒を解いたような文芸復興の声に惹かれる心理があった。
前後して日本に紹介され始めた社会主義的リアリズムというものも、この混乱に際してそれを整理するよりは却って一層の紛糾をもたらすものとなった。当時の日本の文学界の心理は、この文学の新しい課題をその歴史的な背景の全部に触れて理解しようとするよりも先きに、先ずこの新しい提案の中から当時の気分にふさわしいと思われる条件だけを好みに応じた説明法で取り入れた。その中心的な箇条の一つは、知識人の社会的評価に関するもので、従来社会的にも文学的にも知識人一般というものが抽象的にこの世の中に在るのではなくて、歴史と社会の層に属して現実を生きつつあるものだと云われ、従って歴史に対する知識人の進歩的な態度、保守の態度というものが、作品の問題にも常に触れて来た。ところが当時の新リアリズムの説明者たちは、知識人の以上のような現実を消して、新リアリズムは知識人はあるがままの知識人として、作家はあるがままの作家としてあるがままの現実を描き出してゆけば、作品そのものが歴史を語ると規定しているとした。
当時の気分にとってこれは便宜な考え方であったかも知れないが、明治以来の日本文学の成長のためには画期的な一つの蹉《つまず》きとなったと思われる。自然主義以来発達して来た個人主義的なリアリズムがその十年の間にようよう社会的なリアリズムにまで成長しかけたその萌芽が、この新リアリズムの便宜的な解釈と共に萎え凋んだ。そればかりでなく、時代の複雑な相貌の必然から、リアリズムは再びもとの自然主義後のリアリズムの古巣へ立ち戻ることも不可能である。その古き巣は時代の広汎な現実を包みかねるのである。リアリズムは謂わばこの時期に於て路頭に迷い出した。今日に引き続く不幸なリアリズムの彷徨の一歩は、当時に於て踏み出されたのであった。リアリズムの彷徨の一歩と現代文学に於ける自我の喪失とは、胡弓とその弓とのような関係で極めて時代的な音調を立て始めたのである。
さて、文芸復興の声は盛んであるが、果して文芸は当時復興したであろうか。声が響いているばかりで、現実には新たな文芸思潮というべきものも生れなかったし、新しい意味を持った作品の一つも出現しなかった。
この実際の事情は、文芸復興を提唱した一群の作家たちにいい作品を生むためには先ず古典を摂取せよという第二の声を起させた。作家の間にバルザック、ドストイェフスキー、スタンダールなどの読み直しが流行したのであったが、この古典の読み直しに際しても所謂《いわゆる》新しいリアリズムの解釈法が附きまとって、例えば、バルザックについての目安は、このフランスの大作家が王党であったにも拘らず小説に描いた現実は当時のフランスの歴史を進歩の方向で反映している、即ち作家の社会的見解などにかかわらず、小説はそのものとして進歩的なものであると云う文芸復興提唱者たちの日頃の持論を裏づけるところに置かれた。歴史的な生活感情の相異に対する敏感さを欠いた古典のかような味い方が、当時の古典流行から何一つこれぞという文学上の収穫をもたらさなかったことは、むしろ当然というべきではないだろうか。このような古典研究から導き出されたものはロマン派のギリシャ文化への憧憬、日本の古代文化への超現実な渇仰等であった。
古典から学べという声は、つづいて作家の教養を高めよという問題をもひき起した。日本文学の伝統の中には従来作家の作家気質ともいうようなものがあって、作家は教養で書くのではない、作家魂で書くのだという心持ちが流れて来ている。この気分は、例えば新感覚派や新興芸術派の無理論性となって現れたし、作家は何でも書きさえすればよいという当時のリアリズムの解釈法の底にも流れ入って、社会的な心理の傾向と綯《な》い合され文学の現実追随への一条件となっているのであるが、今日顧みて興味あることは、当時改めて強調された教養を高めよの問題では、これまで作家の主観の中では頼られていた作家魂の衰退が、暗黙に告白されている点である。作家魂という表現も、つまりは作家に自覚されている自我の誇りに拠っていたものであろう。当時云われた教養を高めよということは謂わばその作家魂の主体を失った人々が、教養でその空隙を埋めようと志した試みの一つであったが、既に教養が文学創造のための何かの足しになるためには必須な現実判断の力を我から否定している以上、この教養へのあがきも文学を肥え太らすものとしては甲斐がなかった。
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