雑多な個別的な花を開かせたが、例えば尾崎士郎の「人生劇場」にしろ、川端康成の「雪国」にしろ、各人の芸術完成の一定段階を示しながら、作者自身にその完成の歴史的な意味を自覚させるために役立つ力は持たなかったのである。
 ヒューマニズムは単なる生命主義ではないといわれつつも当時北條民雄の「いのちの初夜」その他が生の緊張の美として一つのセンセーションを起し癩文学という通俗の呼び名が作者たちの忿懣を招いたこともあった。
 現代のヒューマニズムは頽廃の中にあるとする高見順は、「描写のうしろに寝ていられない」という自身の理解から「十九世紀的な客観小説の伝統なり約束なりに不満が生じた以上は、小説というものの核心である描写も平和を失った。」と説話体の手法をもって現れた。この作家が、頽廃の中にさえヒューマニズムをみようといいながら、描写への疑問の理由を、「客観的共感性への不信」に置いていることも私たちの注意を惹くところである。形式を文学の内容の特殊なモメントとして観察する場合、高見順によって始められたこの説話体は、その物語の形式に於て失われた自我の姿が反映していることも意味深いし、評論が当時独白化しつつあ
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