しい文学創造の養いとなり得なかったことを見て来たが、この過去への瞥見が谷崎、永井、正宗、徳田など、最近の数年間は活動の目立たなかった自然主義以来の作家たちの創作慾の甦りとして作用したことは興味深い事実であった。「ひかげの花」にしろ「春琴抄」にしろそれぞれの作家の年来の特色を年来の色調のままに発揮したものであり、特に「春琴抄」は物語の様式をつかわれて、同じ耽美的の被虐性を描くにしても往年のこの作者が試みた描写での執拗な追究、創造は廃されている。
 谷崎潤一郎がこの作品に触れての感想で、自分も年を取ったせいか描写でゆく方法が億劫《おっくう》になって来たという意味の言葉を洩し、創作態度としての物語への移行が、作家としての真の発展を意味しないことを言外にこめている。当の作者がそのような自覚に立っているにも拘らず「ひかげの花」もこの作品も、さすがは叩き込んだ芸の巧さ[#「叩き込んだ芸の巧さ」に傍点]と云う点で甚だもてはやされた。芸の巧さということが、切り離されて人々の口の端に喧しく取上げられ始めた。作家に一定の技術が求められることは当然であるけれども、人間の現実をうつすものとしての内容の本質的な
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