級の一特質をなす知性の世界を観念過剰の故に否定して、単純な勤労の行動により人間としての美と価値とを見出そうとしていることは、一方の極に生産文学を持った当時の人間生活精神の単純化への方向と合致していて、極めて注目を惹かれる。
「生活の探求」に描き出されている世界の現実は、駿介が学生生活をやめて田舎へかえるという作者によって設定された条件そのものからして、何もわれわれに理想や主張の具体的なものは与えない。もし知識人の苦悩といい、批判というのならば、帰る田舎や耕す田地は持たないで、終生知識人としての環境にあってその中でなにかの成長を遂げようとする努力の意図がとりあげられなければなるまい。駿介に還る田舎を設定しなければこの小説全篇が成り立たないことや、そのような形で簡単に思惟と行為とを対立させて、云わば仮定から一つの実験を展開させているところは、文学作品としての被いがたい弱さであると思わざるを得ない。理想を持とうとしているのだという押し出し、主張を見出そうとしているのだという身振りに打ちこめられている作者の執着と熱心が駿介を中心として全篇に漲っているが、それは一つの精神の形式に過ぎないものであるから、生活の細部の行動では日常の卑近なあれこれに主観的な誇張された感慨をうちかけて行かざるを得ない。観念形式の嵩だかさと日常の卑近さの間にあるこの分裂は、ある理想の日常性への具体化ということとは全く違う本質である。真摯だという点で一定の読者への影響をもっているこの作家の考えること[#「考えること」に傍点]それ自体に良心の意義を主張している創作態度は、客観的には知識階級が今日如何に生きるかを考えるという満足のために考えるポーズに拍車を加える結果ともなっているのである。
 この如何に生きるかという命題は、阿部知二の諸作のテーマでもある。この作家は島木健作とは異って、「冬の宿」、「幸福」等にみられる通り、思想と行為の分裂やその二つのものの機械的な綯い合せの域を一歩進めて、生活全面の無目的な自転を、その文学の中に追跡している。その意味では、島木の文学の所謂健全性がその髄に飼っていてそこから蟻と蜚※[#「虫へん+廉」、第3水準1−91−68]《あぶらむし》のような関係で液汁を吸いとっている時代の虫を、阿部の文学は彼流の知性のつかわしめ[#「つかわしめ」に傍点]のようなものとしていると思える。

          五

 このようにして移って来た現代の文学が、一方で小説の素材主義に対する批判を生んだのは当然のことであった。小説が文学的感銘を失い、その世界に水々しく生きている人間の姿を失って、題材の筋書を辿るばかりのものに堕したという不満が一般に聞かれるようになった。それにも拘らず、長篇書き下し小説の流行はかつてない勢で出版界を風靡した。慌しく忙しく流行作家は長篇を書き下しつづけたのであったが、この商業的な文学の隆昌が、昭和十四年度にははっきり文学のインフレ景気という名称を蒙って、出版界の賑かさに反比例する文学の質の低下が真面目に注目されるようになった。
 文学の精神は自主性を失って文学の外の力に己を託した日以来、下へ下へと坂を転り、その転る運動を文学の時代的反応の当然の動きであるかのように偽装しながら、この年に入っては、遂に文学性などというものに煩わされる心情を蹴り捨てた一種の作品が流行した。「結婚の生態」はかつて「蒼氓」を書き「生きている兵隊」を書いて来た石川達三が、文学非文学の埒を蹴って、文学を常識性の一ばん低く広い水準での用具とした一つの実例であった。
「生きている兵隊」で、この作者は極端な形で観念と現実との熔接術を試みた。そして観念は人間の生存本能の中に吸収されてしまうという理解に辿りついたのであったが、「結婚の生態」では、この社会の世俗の通念でいい生活と思われている小市民風な生活設計を守るために、本能も馴致されなければならないものとされ、そのために文学がつかわれることとなった。文学がその作家の文学的性格の強靭さの故によるというよりは寧ろ、世間を渡る肺活量の大きさで物をいうという現象は、文化と文学のこととして何と解釈され、何と反省されなければならないことであるのだろうか。
 文学に人間を再生させようという地味だが本質的な要求は、次第に明確に作家たちの間に湧きおこった。短篇小説の再評価の問題もその要求に連関するものとして、考えられると思う。短篇小説が私小説の系統に立って、作者の身辺些事の描写や、狭く小さく纏った雰囲気、心境をその世界として来ていたということに対して、嘗ての不満は表明された。現代の日々は、そういう独善の文学的境地というものの成り立ちを不可能にしている。文学はもっと社会的にその世界をひろげ豊かにしなければならないという要求から、長篇や社
前へ 次へ
全19ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング