会小説が求められたのであった。その要求は一つの必然に立つものではあったが、さきに細々《こまごま》とふれて来たように、その出発の一歩で、文学としての自主性を失ったことから、結果としては小説から人間が退場させられるという光景を来した。作者は作品に対する自己のモティーヴなどに心を煩わされることなく、書けないという往年の作家たちの悩みなどは無縁な心情で、対象への愛や凝視に筆足を止められず、書くという状態になった。
人間を文学に再び息づかせるには、作家が先ず人間への愛をその精神の内に恢復させなければなるまい。自身の創作のモティーヴを見きわめ、描こうとする対象と自身との渾一の状態を求め、話の筋よりは作家の生命が独特の色、体温、運動をもって小説の世界に呼吸しなければならない。そのように作家が己れにかえる道は、短篇小説の新しい見直しにあるのではないかと考えられたのであった。
形式の上の小ささから、短篇が心境的な要素に立たなければならないという先入観は誤りで、例えばチェホフの短篇にしろ、短篇が普遍的なる世界をもち得ることは明かである。私小説に出戻るというのではなく、社会生活に対する興味と関心と、そのような社会生活を共同のものとして感じる心の肌理《きめ》のつんだ表現としての短篇小説が期待されるようになったのである。
文学の文学らしさを求めるこの郷愁《ノスタルジア》は、素材主義的な長篇に対置した希望で短篇小説に眼を向けさせ、岡田三郎の伸六という帰還兵を主人公とする連作短篇なども現れた。また十四年度に著しい現象とされた婦人作家の作品への好意と興味とも、一面ではそこに繋ったものであった。
今は純文学が文学の文学らしい形象性を意味するものとして云われるようになったのであるが、それが長篇に対する短篇という形式によってとりあげられたところに、やはりもう一度考慮を深められるべき要素が潜められていたと思う。何故ならば、より純な文学の心情に立つ方法として拠りたたれた短篇の多くは、やはり以前の伝統の糸の力に少なからずその作品の世界をひき戻される現実となった。やはり身辺的な作品、境地的な作品が多く、その意味で文学の本質が心情的に分っている作家が、この三四年間の波瀾をとおして、現実把握の方法を長足に社会的方向へ発展させたとも思われない状態であった。
文学へ新人の爽やかな跫音を、と求める気分は濃厚となって、新人推薦、発見の方法は幾多の賞を手引きとして講じられた。抑々《そもそも》日本の現代文学の世界で、こんなに幾種類もの賞の流行が、文化統制の気運とともに組織された文芸懇話会賞から始ったというのは、歴史の興味ある容相ではなかろうか。文学の衰弱の声とともに益々賞が殖えて行ったこともただ見ては過ぎ難い。芥川賞第一回以来、幾人かの作家たちが現われたが、その第一回から新人たちが文学の世代として新人とは云い難い文学の閲歴を重ねて来ている人々であることが、特に関心をひいたことも記憶に新しいことがらである。
文学批評の、批評らしい客観的な存在の薄れたことにも、文学の健やかな進展を要望する傾向からの注意が向けられた。評論の不振に活の入れられなければならない必要も痛感されつつ、今年が迎えられた。窪川鶴次郎の『現代文学論』は昨年の冬出版され、数年来の文学の動向を、個々の現象に即しながらそれを原理に近づいて論考した所産として、少なからぬ興味を有するものであった。
多岐多難な現代の日本文学が、今日と明日とに向って自身の最大の課題としなければならないのは何であろうか。ひとくちに要約すれば、それは文学に於ける人間の再生の課題であろうと思う。人間は文学の世界において、物に従属させられる人間から、物の主人である人間の現実の生命をとり戻さなければならないであろう。生存の条件の下に自主の力のない運命をくりひろげるものとして描かれている人間の姿は、生活の条件に評価をもって働きかけようとする人間の力の実際で見直されるはずではないだろうか。作家は、社会的な人間としての自分を自身にとり戻して、そのことで観念の奴僕ではない人間精神の積極的な可能を自身に知らなければならないであろう。例えば長篇小説の非文学的な状況の打破も、芸術文学としての長篇の在りようにおいて見きわめられなければならず、そのために、くりかえしなおまた再びくりかえす現実の必然として、作家は創造的な批判の精神を溌溂と発揮し、文学の対象としての人間の歴史的な個性的なその動く姿を、作品のうちに正当な相互関係で甦らせなければなるまいと思われるのである。[#地付き]〔一九四〇年八月〕
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全
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