一方的に――即ち農民生活の現実からの声としてではなく――いわれなければならなかっただろう。
 伊藤永之介の「鶯」や「鴎」は農民のルムペン的な存在条件の中に人間の種々相を捉えようとしたが、独特の説話体で書かれたそれらの物語は、農民の存在条件に突き入ってゆくよりは寧ろそれぞれの瞬間に笑いと涙とを表現していて、そこに漂っている仄明りの故に、救いのある農民文学として迎えられたのであった。
 二三の読むべき作品は生まれたけれども、当時の農民文学は文学としての自主性を持たなかったこと、農民の生活を描写するにあたって文学的正直さに徹し得ない内外の事情に制約されていたために、農村の具体性を再現し得ないという意味では、所謂時局的な「農業政策の行われる沿道の風景」をリアルに描き出す可能をも失っていた。
 かように文学として自主的な必然に立っていなかった農民文学のグループが、本来ならばますます描かれるべき農村状態の緊張の高まりと共に忽ち方向を転換して次の年には南洋進出の潮先に乗って海洋文学懇話会というものに変ったのは、まことに滑稽な悲惨事であった。
 間宮茂輔、中本たか子等の作品が生産文学という名称を持ったことも、究極に於てはこの農民文学がそうであった通り文学からの生ける人間の退場が根本の理由をなしている。かつて横光利一が第四人称の私を発明した時既に生産文学に於ける人間と物との置き換えの準備がされたのであったといえば、「紋章」の作者は意外に感じるであろうか。
 私小説的境地からの脱出として社会文学ということがいわれた時、文学は作者と作品の世界とを繋ぐ血肉的な関係に対する支配を失っていて、作家の創作的意図で作品が作家の生活の外でどしどし纏められてゆく危険に曝されていたのであるが、社会的な素材を文学に持込もうという意図が作者の内面ときりはなされて旺盛になったことは、時局と共に生産拡充の呼び声に惹きつけられて行った。
 社会の物質的な土台が生産にあることを否むものはない。生産面に働き、その働きに於て生活的・社会的な人間の評価をもつ人間が小説に描かれてゆくのならば、労働文学と何故呼ぶことが出来なかったのだろう。ここに極めて微妙なものがあると考えられる。物質的な生産の行為は一目瞭然のことである。だがその行為が人間生活の中にかかわりあい、様々の生きた意味をもってくる経路は、誰の目にもいつもはっきり見えているとは言えない。その経路を生産の場面に働く人間の存在の条件或はその状態から語る労働として見る立場からその文学が立ち現れず、物[#「物」に傍点]を生産する過程や場所[#「場所」に傍点]に重点を置く生産という言葉を戴いて出現したことは、やはり時代の対人間の傾向を示すものとして見逃せない。建設的な精神の本来は極めて複雑高度な現実把握と実践との統一を意味するものであろうが、当時らしい概括で流布した建設的精神の解釈は、当面向けられた要求に向って一切の疑問を抱かぬように単純化された生活と精神との所謂真面目さという低度に止まっていた。生産文学は、人間を物に従わせるということで、とりもなおさずそのようなものとしての建設的精神の文学的表現となったのであった。
 ところで、知識人をこめた一般の読者は上述のような幾種類かの何々文学の続出に対して果して満足していただろうか。知識人は生産文学が示したような人間生活と精神の単純化には、何と云っても耐え得ないものを持っている。何かの理想を求め、主張をたずねている。しかも、一つの理想主義があらわれるとそれに束縛されることを望まず、何かそればかりではない他のものを求めて動きつつ、知識人としての存在価値を自覚させるよすがを求めている。知識人がよしんばそれに対立するとしても、そのことで自己を保っていた支柱を数年前に失ってから、生活と文学とに何かを求めつつそれを追い払いつつ転々して来た跡は、文学の上に明瞭に見て来たところである。
 何々文学には満足出来ず、さりとて理念と行動との一致は追究せず、だが、考えることはやめられない知識人の心情に触れたのが、島木健作の「生活の探求」であったと思われる。
「癩」、「獄」、「第一義の道」、「再建」などによってこの数年来思想的放浪に置かれた知識階級の良心の支柱となり得るかのような作品の居住居を示して来たこの作家は、「生活の探求」に到って一つの転回を示した。これは、都会の大学に苦学的な学生生活を営んでいた駿介という主人公の青年が、都会の文化と知識人の生活を批判して故郷の農村の家へ帰って素朴な勤労生活に入ることを描いた作品である。
 これまでの作品でこの作家は、執拗に、知識人の自己の歴史への任務の自覚と、良心の苦悩と、それに殉じようとする精神をとりあげて肯定して来た。ところがこの度の生活探求に於ては、よかれあしかれ知識階
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