であった。
人間の問題を生活の現実の中から捉えず、観念の中にみて、それで人間を支配しようとする傾向は、昭和初頭以後の文学に共通な一性格であるが、この作品には実に色濃くその特徴が滲み出していて、作者が自身の内面的モティーヴなしに意図の上でだけ作品の世界を支配してゆく創作態度が目立っている。
文学が自立性を失って、ほんとうの意味で作家の生活感情からの動機なしにつくられてゆくこの気風は、当時世相を蔽うた一種の息苦しい不安と結びついて、作家の動きに顕著な心理を現した。かつての純文学の作家・評論家が自己への信頼を失うとともに文学の外の強い力へ己を託した姿は先に触れた通りである。当時は、新しく登場した作家として「沃土」を書いた和田伝、「鶯」を発表した伊藤永之介等の作家があり、「あらがね」で鉱山の生活を描こうとした間宮茂輔等があった。農村を題材として和田、伊藤の作家が活動し始めたには、前年からの社会的題材への要望、作品の世界の多様化の欲求が一つの動機をなしていたのであろうが、それらの作品が好評を博したことは、当時の官民協力の気風と結びつき銃後の農村の重要性を文学も反映させなければならないという立前と結合して、官製の農民文学懇話会結成の気運を齎した。その懇話会賞も制定され、その名の叢書も刊行され、それらの小説集の表紙には時の農林大臣有馬頼寧の写真が帯封の装飾として使われるという前例のない有様を呈した。
近代及び現代の日本文学の中で、農民文学の占めて来た位置とその消長の跡とは、日本の社会と文化の成立の歴史と照しあわせてさまざまの感想を惹きおこす問題だと思う。日本が農業国であって、その独特な条件の上に明治の新文化が開花させられたのであるが、文学に於いては、長塚節の「土」を一つの典型とするのみで、土の文学を唱道する作家たちの活動や大正年代に吉江喬松・中村星湖・犬田卯等によってつくられた農民文学会の活動などが、特にめざましい文学上の収穫を齎して来ていないことは、注目すべきことである。農民文学のかような歴史の断続とそのみのりの或る困難さは、農民生活と土とに心を惹かれた作者たちに、日本の農村・農民の社会的具体性が十分明瞭に把握されず、ある人々は自然への愛好の表現の一面として、ある人は近代文化の都会性へのアンティテーゼとして一種のモラルの見地から農民文学に近づいていたためでもあったと思われる。プロレタリア文学は、農民が土との関係の中で置かれている歴史の現実に触れて、農民自身による生活表現としての農民文学を導き出そうとしたし、その創作方法では農民を文学の外にある読者として見ず、作品の真実の対象として扱おうとした。
今、一つのグループを持って現れた農民文学が、農民文学として注目されたよりもむしろそのグループの新しい動向の方が問題とされたということは、争われない時勢の一表現であったのだろうか。このグループの作家たちが役所に使われる者ででもあるかのように「某々氏、農民文学懇話会の依嘱により何々地方へ視察旅行に赴く。」というような表現で消息を書かれた雰囲気も類のないことの一つであった。
文学の外の力との経緯からそのような動きを示した当時の農民文学がその作品の世界にどんな誠実をもって日本の農民の複雑な姿を描いたかといえば、この問いはあまり満足な答を得難い状勢であった。農民作家としての和田伝にしろ、伊藤永之介にしろ、真の農民の生活的現実をその文学に生かすには、謂わばあまりに当代の作家らしさを身につけすぎた人々であり、創作態度にはやはり或る観念化がつきまとった。これらの作家は人間が如何なる条件に存在するかというその諸条件を書かなければならないという文学思想に立って農民文学にも対したのであったが、それらの諸条件を描くという場合注目されることは、人間と存在条件との間の統一が求められていず、人間環境としての存在条件が実証の精神によって科学的に観察も分析もされていないという点である。とりもなおさず農民は農民自身の生活現実に於て扱われていず、作者たちが人間に対して抱いている観念を農民の存在条件の中に見出そうとする傾向に立ったのであった。それ故「沃土」のような成功した例外のほかの多くの和田の作品は、その農民心理が我執とか所有欲などを本能にまで還元された上で、その葛藤を特定の条件によって設定して、その筋の上に発展させられている。なお、考えさせられることは、作者の人間に対して抱いている観念そのものが、作者の地主としての農村に於ける生活のニュアンスから蒙っている影響や、人間の生きようというものに対して時局が要求している調子に或る反響を示している点である。さもなければ、どうして農民文学の暗さ明るさというようなことが、過去の農民文学の所謂暗さを否定する方向で当時あのように作品の側から
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