ものであるのは一つの現実であるけれども、馴らされるまでに内外から蒙る衝撃と思考の再編成の姿は、人間の生活的ドキュメントであろうけれど、火野の記録にこの歴史から照り返される人間精神の一契機は、語られていないのである。
 日清・日露の時代とは比較にならず文化戦の意義は広汎に自覚されていて、作家の現地派遣も新しい時代の要求の方向を示すものである。桜井忠温は日露の時代が生んだ一種の戦場文筆家であるが、この人の文章にもやはり火野と同様の素朴な自然人の感情と兵士の立場とが二つのものとしてのまま現れている。そして同じく戦場の異常性というものはその表現の上に極めて抑えられている。文化を動員する方法は大きい変化を示しているにかかわらず、戦場文学ともいうべき火野の諸作が、本質的には桜井忠温の現実の反映のし方から決して三十有余年の人間知性の深化を語っていないというのは、如何なる理由によるのだろう。
 文学としてはこれらの問題を含みつつも、火野の文章が世上に伝えた波動の大きさは正に、銃後の心理を思わせるものがあった。
 同じ時に、上田広の「鮑慶郷」という小説が発表された。火野の文章と対比的に世評に上ったが、前者が生々しい戦場の記録として多くの感銘を与えたに反して、上田広のこの小説は、同じ感銘では受け取られなかった。「鮑慶郷」に於て作者は、戦争から一つのテーマを捉え来って、それを小説に纏めるという、作者の日々の条件からみれば実に驚くべき文学的努力を試みているのである。そして小説の様式も従来の小説というものの仕来りに準じている。読者は、作者の生きている境遇の烈しさをおのずから念頭においているから、題材だけ異ってあとは机の上でも書けそうな小説に面して、ある物足りなさと疑問とを感じたのは肯ける。戦争の間にそれを扱った小説が書けるか書けないかということを軽々に判断し得まいが、上田広の文学的意図と努力が何かの物足りなさを一般に与えたことは幾つかの理由をもっているだろう。最も重大なまた興味ある理由の一つは、戦争という巨大複雑な動きに対して、この作者の捉えたテーマは何といっても小さく浅いという印象を与えたことであった。作者一個の才能とか資質とかいう以外に、このことは現代文学が自身の歴史をどこまで文学の対象とし得る能力をもっているかという点で、文学の内と外とから考えられる課題であると思う。
 このようにして、一方に戦場或いは戦争の文学が現れたが、そのことは直ちに当時の文学的活動の全方向がそちらに向けられたという意味にはならなかった。事変の始め一部の作家は動揺して文学の仕事を捨てるべき時ではないかというような判断の混乱を示したが、その他の大部分の作家たちは、文学本来の意味と任務とを守って、兎も角仕事をし続けてゆくという心理にあった。その意味では、火野の諸作も幾多のルポルタージュも文学の基調を一変させるものではなかった。それらのものと、従来の文学とはそれぞれのものとしてありつづけたのである。
 ところが、この年の初頭に一部の指導的な学者・文筆家が自由を失い、また作家のある者が作品発表の場面を封じられた事実は、文学の本質というよりも一層直接な形で作家・評論家の社会的動向に影響した。顧れば昭和九年「不安の文学」がいわれた時代、日本文学は歴史的な自身の底を意識したのであったが、それは何といっても文学精神の課題に於てであった。更に二年後の衝撃的な事件は、文化の危機を一般の問題として自覚させた。この時に到って作家の身辺に迫った一つの空気は前の二つの経験よりはもっとむきだしの形で生存の問題にも拘るものとして現れた。一つの息を呑んだような暗い緊張が漲ったのである。
 石川達三の小説が軍事的な意味から忌諱《きき》に触れたのもこの年の始めであった。文学のこととしてみれば、その作品は、当時の文学精神を強く支配し始めていた所謂意欲的な創作意図の一典型としてみられる性質の作品であった。「蒼氓」をもって現れたこの作者は、その小説でまだ何人も試みなかった「生きている兵隊」を描き出そうとしたのであろうが、作品の現実は、それとは逆に如何にも文壇的野望とでもいうようなものの横溢したものとなっていた。作者はその一二年来文学及び一般の文化人の間で論議されながら時代的の混迷に陥って思想的成長の出口を見失っていた知性の問題、科学性の問題、人間性の問題などを作品の意図的主題としてはっきりした計画のもとに携帯して現地へ赴いた。そこでの現実の見聞をもって作品の細部を埋め、そのことであるリアリティーを創り出しつつ、こちらから携帯して行った諸問題を背負わせるにふさわしい人物を兵の中に捉え、全く観念の側から人間を動かして、結論的にはそれらの観念上の諸問題が人間の動物的な生存力の深みに吸い込まれてしまうという過程を語っているの
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