「綴方教室」が異常な好評で迎えられたのもこの時期である。随筆への傾きはこの時期更に一歩を進めて、少女の作文にさえ何かの新味と現実の姿とをみようとする状態であった。川端康成が、女子供の文章の真実を、その素朴な偽なさの故に評価しようとしたことも、大局からみればやはり文学の夥しい自己喪失を意味するものであったと思う。
 このような文学に於ける社会的見地の抹殺と客観的な評価の消滅が充ちていたとき、最低限の形ででも民衆の日常の現実を文学の対象として描こうとした努力から中野重治「汽車の罐焚き」や徳永直の「八年制」などが書かれた。
 この年七月蘆溝橋に轟いた銃声は日本の社会の相貌を急変させたと同時に、その年の秋には報告文学の問題が中心に立ち現れて来た。海を渡って早速何人かの作家が現地視察に赴き、その報告の文章が各雑誌に競って載せられた。社会事情の変化と共に大陸を背景として行われている歴史的な行動における人間の記録は、人間の精神と肉体との白熱的な報告として行き詰った文学の世界に新生を与えるであろうという希望もかけられたのであった。
 ところが、この希望も単純に満たされることは出来なかった。何故ならば、既に自身の文学の対象として真に生ける現実と人間とを捉えることをやめていた作家たちが、あらゆる意味で最も近代的に錯綜した一社会現象として現れている事変の局部に傍観的な記録者として近づいたとしても、その全局面を歴史の上に把握出来ないのはもとより、感情としても決してそこに生き戦い死しつつある人間の感想、情緒を映すことは不可能であった。そのような客観的現実としての民衆は、かつて「民衆は客観的には存在していない」といわれた時から、文学の対象として生かされ得ないめぐり合わせに立たされたのである。
 それらの理由によって、当時の報告文学は、報告文学本来の客観的な事実の記録とは全く遠いものとして現れた。即ち、それぞれの筆者の主観と感情の傾向に支配されて、ある文章は無垢な天の童子の進軍の姿のように、ある文章は漢詩朗吟風な感傷に於て書かれた。そして、そのいずれもが等しく溢れさせているのは異常な環境のために一層まざまざとした筆者の個性の色調であった。
 当時文学が新しい素材の源泉とリアリズムの深化の契機を報告文学に求めようとしたことと、そこに見出された不満との関係は、その数年来文学が転々して来た動向から見て必然な結果のあらわれであったといえよう。報告文学がそのものとして独自の人間記録の価値をもって文学を豊かならしめ得るためには、一方に文学の各ジャンルの方法が芸術の自主性において確立されていなければならない。当時のように、文学全体が帰趨を失い自主的な対象と方法とを見失っていたような時期、そこにある現実の特殊さへの関心と、政論的な作家の行動性から報告文学へとりつかれたとしても、そこに文学として得るものが多くなかったのは、現実の必然の結果であったと云えると思われる。
 翌十三年八月になって『改造』に発表された火野葦平の「麦と兵隊」は、これまで現れた作家の報告文学とは全く異った戦場からの身をもっての経験の報告として一般に甚大な感銘を与えたものであった。この作家は、他の何人かの作家と共に応召して戦野に赴いた一人であり、応召までの文学的経験もあって、その「糞尿譚」は文芸春秋社の芥川賞に当選した。「糞尿譚」は糞尿汲取の利権をめぐる地方の小都市の政党的軋轢を題材として、文章の性格は説話体であり、石坂洋次郎などの文章の肉体と相通じた一種のねっとりとした線の太さ、グロテスクな味いを持ったものであった。題材は社会的な素材を捉えながら文学としての特質はその作者の持味めいたものに置かれているというのも、当時の作品らしかった。「麦と兵隊」は、この作家が戦場で報道部員として置かれた条件を最もよく生かした成果の一つであったと思われる。この記録はあくまで小説ではない記述としての立前で書かれており、一兵士としての見聞と人間火野としての自然の感情とがそれぞれに盛られている。従って、戦場の光景はそのものの即物的な現実性で読者の感銘に迫って来るし、一方作者によって絶えず意識され表明されている人間自然の情感というものはその描かれている世界への近接を感じさせる十分の効果をもっていた。この二つの要素が作者火野によって常に意識されていることは、この作につづいて書かれた「土と兵隊」、「花と兵隊」等にも一貫して認められる。しかしながらこの二つの要素への意識はどちらかといえば素朴な両立の形で存在していて、その意識は文章の独特な人間的文学的ポーズを感じさせる。更に私たちの注意を惹かれることは、火野の文章のあらゆる場合、戦場の異常性というものが抑えられて描かれている点である。人間が、どのような強烈な刺戟の中にも馴らされて生きる
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