われて時代から置き去られている。文学は文学愛好者の間にだけ細々と命脈を保っているべきではなく、生きた興味で官吏、軍人、実業家などに読まれる「大人の文学」でなければならないという論も出た。
民衆のための文学にならなければならないという提議は、この時期に於て従来のあらゆる文芸思潮の持たなかった一特徴を具えて立ち現れた。過去のさまざまの文芸思潮はそれぞれの表現をもちながらも常に文学が人間精神を高め目覚まさせる感銘を持つべきものという定義は、あらゆる論議以前の芸術の本質として認めていたと思う。ところが、この度登場した民衆の文学論は「民衆というものは客観的には存在しない」という前提に立って、文学の対象としての本質的な存在を抹殺しつつ、民衆にとって現実への批判精神などは何の興味も価値も感じられてはいない。漫才をみて笑う民衆の朗らかさ、その素朴な生活力こそ文学に新しい力として齎《もたら》されなければならないという論旨が展開された。
民衆の文学という声が、文学の世界の現実として民衆の日常生活、心理、歴史への関り方を再現してゆくべきであるという自然な解釈からは脱れて、主として知識人の知性、批判力への否定のてだてとして出発して来たことは、あれほど到るところに谺《こだま》していたヒューマニズムの響きの来し方として、愕きに似た感想を喚び起される。人間性の無制約な承認という主張はあのように熱心にくりかえされていたが、社会事情の推移は、かくも急速に知識人の知性のために矛を向けるものと変化した。文学はまず民衆にわかるものでなければならない。民衆の日常感情を映したものでなければならないといわれたが、民衆の理解力といい、日常感情といいそれらはいずれも論者たちの主観的な解釈に立った内容でとりあげられ、その意味では民衆の文学といわれつつ必ずしも文学の現実として民衆を対象としているとは言いかねた。
谷川徹三が時を同くして唱えた文化平衡論も知識人と民衆の間に横たわる文化のギャップを埋めて、日本の新しい文化はその平衡をとりもどさなければならないとしたが、この論に於ても平衡のモメントは文化そのものの全体的な向上の歴史の過程で生れるものとはみられていず、現実的に高いところから低いところへというような歩みよりの意味で語られた。民衆というものは自身の文化成育の欲望をもっていないものだろうか。知識人の再生というものは、今日あるがままの民衆の習俗常識の中へ己を埋没させてゆくことでだけ達成されるものだろうか。民衆は客観的には存在しないといわれたことは、現実として民衆が種々の可能と素質とに於て客観的に存在している事実を抹殺してのことであるから、知識人の批判精神が民衆にとって無用であるという論旨も不幸にして同様の架空性に立たざるを得なかった。
文学の問題としてみれば、誰の目にもその矛盾や架空性が明かであったこの独特な民衆の文学論が、作家の心理に何等か影響する背後の力をもっていて、例えば森山啓の「収獲以前」という小説を生んだりしていることは注目を惹かれる。この小説は言ってみれば文化平衡論を小説にしたようなものであった。困窮な下層小市民の家庭から出て、大学教育まで受け、時代の波に洗われて親が描いたような出世の道は辿らなかった一青年が、遂に自分の教養、知性のまやかしものであることに思い到って、出生した社会層の伝習とその粗野な表現に新しい人間的値うちを見出す心理が描かれたものであった。
このように民衆という言葉は彼方此方へ取り交されたが、文学の実質としての民衆がどのような扱いを受けているかということは亀井勝一郎の当時の表現が最も率直に示している。「文学の大衆化を、文字通り自分の眼前で実行するには、権力又は政治党派と結合するのが早道である。私は誇張した例を挙げよう。例えばネロは、権力によって自己の作品を大衆に強制した。このギリシヤかぶれの暴君は、自分の作品を非難する者を容赦なく殺した。こういう方法で大衆が納得するだろうかと悲鳴をあげても始らぬ。」このロマン派の青年論客が、曩日《のうじつ》文学の芸術性を擁護して芸術至上の論策を行っていたことと思いあわせれば、純文学に於ける自我の喪失が如何に急速なテムポでその精神を文学以外のより力強い何物かに託さなければならなかったかという経緯がまざまざと窺われるのである。
以上のように文学の現実的課題である作家の創作方法の問題とは切りはなして、文学の外で意識された民衆の文学の声は、その成り行きとして、民衆生活の自然発生な反映を文学に求める傾きを来たした。素人の文学ということが言い始められた。職業的な作家が書けない生活の直接の記録の面白さという点でいわれたのであったが、このことにも当時の文学精神がその独自性を我から抛棄していた反映がみられる。
豊田正子の
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