何より必要なことではないのかというのがこの散文精神の骨子である。武田麟太郎が市井の現実にまびれることを新しい人間性発見への小路としたのとは異って、広津和郎のこの思想は、いわば前者が現実にまびれゆくという自身の意図に我から壮とする身振りをもじっと眺めてゆこうとする態度である。けれども、この結論を急がぬ探究精神が、社会と文学の現実に於て何かであり得るためには、現実の諸矛盾に「耐えてゆく非常に強い気力」が必要とされるばかりではなく、突入してゆく当面の現実に対してある評価判断の拠りどころが明確に持たれていなければならないだろう。自然主義的な「散文的」現実反映とこの散文精神の相違は、後者があくまでも社会現実に向って主動的なダイナミックな本質でなければならないことが唱えられた。しかしなおこの散文精神の提唱もその真の動性を可能ならせる内的な力を明かにし得ていなかったことは見逃し得ない点であろうと考えられる。
 さてかようにしてヒューマニズムの声は、当時の日本の文学を一定の文芸思潮としてのその力でより高めより健やかにしてゆくというよりも、むしろ文芸思潮の失われた後の文学界の錯雑した諸傾向それぞれに、人間像再生の理由によって総花を撒いた形となった。人間が社会的な存在である事実はさすがに蔽うべくもなくて、この時期に「社会小説」という課題が一方にあった。従来の私小説に対して、より広く複雑な社会の姿をさながらに描き出さなければ所謂人間像も芸術のリアリティとして生かされないという理解に立って、社会小説は形式としての長篇小説を予想した。長篇流行の風が萌《きざ》した。日本の文学も私小説の時代を経て社会小説の黎明に入ったともいわれたのであったが、そこには極めて微妙な時代的好尚の影がさしこんだ。横光利一の純粋小説論が、文学の本質として現実追随の通俗性に堕さざるを得ない理由は先に簡単に触れた通りである。この社会小説への門としての長篇小説流行が、当時に於てもその長篇小説らしい構成を欠いていること、武田麟太郎の「下界の眺め」にしろ横光利一の「家族会議」にしろ或は「人生劇場」「冬の宿」その他が一様に通俗性に妥協している点で批判を蒙っていたことは、なかなか意味のあることであったと思う。長篇小説が長篇小説としての構成を持ち得るためには、現実の単なる観察では不足であり、そこに作者の人間的・芸術家的な強い何かの評価の一貫性が、その理解の多様性と共に作品を生命づけていなければならない。独自の社会小説というものもあり得ない。ヒューマニズムという豊穰な苗床さえ当時日本の文芸評論から理論性が消滅しつつあるという重大な危機を好転させ得なかった事実を思いあわせれば、長篇小説、社会小説が本質的な現実把握と文学的実践力を包蔵し得ないままに、ジャーナリズムの場面を賑わした必然も、おのずから会得されるのである。

          四

 牧野信一の自殺は、当時作家の生活感情に一つの深く暗い衝撃を与えた出来事であった。当時は純文学の作家が思想的にさまざまの苦痛混乱に曝されていたばかりでなく、経済的にも益々逼迫して来る不安におかれている時代であった。純文学作品は売れないというのが一般の常識で、しかもジャーナリズムが純文学に提供する場面には制限があり、生活的には殆ど大部分の作家たちが中年に達した家長として経済の負担を痛感し始めた時期であった。昭和十一年二月二十六日の事は、更に複雑な意味で、文学と作家の生活を考えさせた。従来の純文学作家といわれた人々がこの時期の前後に長篇小説への叫び声を一つの跳込み台として通俗小説に身を投じた心理にはこれらの事情も作用していないとはいえない。
 昭和十二年になってから純文学に対する論議は極めて特徴のある歴史的な相貌を示し始めた。文学の対象として自我をとり扱い、私小説を中核に抱いて来た純文学が、社会の推移につれてその自我を喪失して卑俗な現実に属するしかない純粋小説論を生むに到ったことはさきにふれたが、この時期に到って知識人の文化発展における能力への懐疑、純文学の作家をおくり出して来た所謂知識階級の持つ批判精神への反撥として純文学批判が現れ始めたことは、日本文学の歴史の過程にあっても特に関心を惹かれる一事でなければならない。
『文学界』に属する作家評論家たちは、現代文学者の中でも「不安の文学」以来観念の重積を特色として来た人々であると思われるが、このグループが新しい熱心で純文学批判をとりあげたことは興味がある。
 純文学が一般の読者にとって魅力がないものとなって来たのは、それを書く知識人と民衆とが、別々の生活感情に生きているからだというのが、新しい純文学と知識人批判の第一行目であった。社会の現実はどんどん推移しているのに作家ばかりは永遠の文学青年じみた自我の問題などに捉
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