級の一特質をなす知性の世界を観念過剰の故に否定して、単純な勤労の行動により人間としての美と価値とを見出そうとしていることは、一方の極に生産文学を持った当時の人間生活精神の単純化への方向と合致していて、極めて注目を惹かれる。
「生活の探求」に描き出されている世界の現実は、駿介が学生生活をやめて田舎へかえるという作者によって設定された条件そのものからして、何もわれわれに理想や主張の具体的なものは与えない。もし知識人の苦悩といい、批判というのならば、帰る田舎や耕す田地は持たないで、終生知識人としての環境にあってその中でなにかの成長を遂げようとする努力の意図がとりあげられなければなるまい。駿介に還る田舎を設定しなければこの小説全篇が成り立たないことや、そのような形で簡単に思惟と行為とを対立させて、云わば仮定から一つの実験を展開させているところは、文学作品としての被いがたい弱さであると思わざるを得ない。理想を持とうとしているのだという押し出し、主張を見出そうとしているのだという身振りに打ちこめられている作者の執着と熱心が駿介を中心として全篇に漲っているが、それは一つの精神の形式に過ぎないものであるから、生活の細部の行動では日常の卑近なあれこれに主観的な誇張された感慨をうちかけて行かざるを得ない。観念形式の嵩だかさと日常の卑近さの間にあるこの分裂は、ある理想の日常性への具体化ということとは全く違う本質である。真摯だという点で一定の読者への影響をもっているこの作家の考えること[#「考えること」に傍点]それ自体に良心の意義を主張している創作態度は、客観的には知識階級が今日如何に生きるかを考えるという満足のために考えるポーズに拍車を加える結果ともなっているのである。
 この如何に生きるかという命題は、阿部知二の諸作のテーマでもある。この作家は島木健作とは異って、「冬の宿」、「幸福」等にみられる通り、思想と行為の分裂やその二つのものの機械的な綯い合せの域を一歩進めて、生活全面の無目的な自転を、その文学の中に追跡している。その意味では、島木の文学の所謂健全性がその髄に飼っていてそこから蟻と蜚※[#「虫へん+廉」、第3水準1−91−68]《あぶらむし》のような関係で液汁を吸いとっている時代の虫を、阿部の文学は彼流の知性のつかわしめ[#「つかわしめ」に傍点]のようなものとしていると思える。

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