えているとは言えない。その経路を生産の場面に働く人間の存在の条件或はその状態から語る労働として見る立場からその文学が立ち現れず、物[#「物」に傍点]を生産する過程や場所[#「場所」に傍点]に重点を置く生産という言葉を戴いて出現したことは、やはり時代の対人間の傾向を示すものとして見逃せない。建設的な精神の本来は極めて複雑高度な現実把握と実践との統一を意味するものであろうが、当時らしい概括で流布した建設的精神の解釈は、当面向けられた要求に向って一切の疑問を抱かぬように単純化された生活と精神との所謂真面目さという低度に止まっていた。生産文学は、人間を物に従わせるということで、とりもなおさずそのようなものとしての建設的精神の文学的表現となったのであった。
 ところで、知識人をこめた一般の読者は上述のような幾種類かの何々文学の続出に対して果して満足していただろうか。知識人は生産文学が示したような人間生活と精神の単純化には、何と云っても耐え得ないものを持っている。何かの理想を求め、主張をたずねている。しかも、一つの理想主義があらわれるとそれに束縛されることを望まず、何かそればかりではない他のものを求めて動きつつ、知識人としての存在価値を自覚させるよすがを求めている。知識人がよしんばそれに対立するとしても、そのことで自己を保っていた支柱を数年前に失ってから、生活と文学とに何かを求めつつそれを追い払いつつ転々して来た跡は、文学の上に明瞭に見て来たところである。
 何々文学には満足出来ず、さりとて理念と行動との一致は追究せず、だが、考えることはやめられない知識人の心情に触れたのが、島木健作の「生活の探求」であったと思われる。
「癩」、「獄」、「第一義の道」、「再建」などによってこの数年来思想的放浪に置かれた知識階級の良心の支柱となり得るかのような作品の居住居を示して来たこの作家は、「生活の探求」に到って一つの転回を示した。これは、都会の大学に苦学的な学生生活を営んでいた駿介という主人公の青年が、都会の文化と知識人の生活を批判して故郷の農村の家へ帰って素朴な勤労生活に入ることを描いた作品である。
 これまでの作品でこの作家は、執拗に、知識人の自己の歴史への任務の自覚と、良心の苦悩と、それに殉じようとする精神をとりあげて肯定して来た。ところがこの度の生活探求に於ては、よかれあしかれ知識階
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