たなかった。同人たちの作家としての活動は、プロレタリア文学に反対であるという一事では、その社会的な生活感情を等しくして結ばれていたが、その他の面では云わば各人各様で、或る作家は芸術至上を説き、或る作家は科学・機械文明との新しい結合で文学を見ようとし、或る人は新心理派へ眼を向け、作家の資質に従ってエロティシズム、グロテスクな追求も行われた。
この「新興芸術派」がその文学的な対立物であったプロレタリア文学運動の消長と共に、その後の二三年間に解体したことは、その後今日に到る間にかつての同人たちが辿り来っている作家としての足どりと眺め合せて、感想をそそられるものがあると思う。
今日知性の作家と称せられている阿部知二、行動主義とヒューマニズムを唱えた舟橋聖一、「人生劇場」によって自身の世界を作った尾崎士郎、「多甚古村」の作者である井伏鱒二等が、やがて一昔の十年前は、この「新興芸術派」に参加していたことも、さまざまの意味で顧みられることだと思う。
二
満州事変は昭和六年に起った。この事件を契機として日本では社会生活一般が一転廻した。昭和七年春、プロレタリア文学運動が自由を失って後、同八年運動としての形を全く失うに到った前後は、日本文学全般が一種異様の混乱に陥った。
例えば前に述べた新感覚派、新興芸術派などの場合についても分るように、この社会の知識人としての作家たちの自分の存在に対する自覚、確信というようなものは、文学上対立するものがあってこそ自分に確かめられていたようなものだったとも云える。文学上のその対立物が目前で蒙った破壊の有様の目撃は、知識人としての心理に於て、それを誹謗した作家たちにも不安と動揺とをもたらさずにいなかったことは明らかである。
当時叫ばれた文芸復興の声は、プロレタリア文学の陣営に属していた人々の間から上った。しかし、その復興さるべき文学は、文学一般を漠然とさしたのであって、過去十年の間に重ねられて来た新しい文学の見解を継承し発展させようとするものではなかった。現実の認識の方法とか芸術の基準とか、そんなものはどうでもいい。作家は書いてさえいればいいのだ。書きたいように、書きたいものをさあ書いた、書いた! という風な調子で押し出されたのであった。
外部からの圧力と共に、文学上の問題としては、かの芸術性の究明が不十分のまま、創
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