囲気の中で、小林多喜二全集刊行がどうして実現しよう。客観的にも主観的にも全集刊行は不可能であった。十五年もの間、小林多喜二全集が刊行されなかったという事実は、その十五年間に、日本のすべての人民の運命が、どんなに無惨な天皇制ファシズムのくびき[#「くびき」に傍点]の下につながれていたかという証左である。
 一九四五年の無条件降伏によって、一応ファシズム権力は退場したように見えた。けれども日本の社会の実質がどれほどファシズムの無思想性と反歴史性に毒されているかという証拠は、民主主義運動と同時に、一部の人々が精力的に小林多喜二の生涯と文学に対して、歴史的基準のない「批判」を横行させた事実に見られる。この三年間に、反小林多喜二の慣用語として、主体性を云い、人民的民主主義の方向を抹殺して、個人を云い自我を云いたてた人々は、現在、その人々の目にもあきらかなように、反動的農民組合の分派が、自分たちを主体派とよび、労働組合の分裂工作が民主化同盟とよばれていることについて、どんな感想を与えられているだろうか。
 小林多喜二の生涯と文学とは、民主主義陣営の間においてさえも、まだ全面的な正常さでうけとられて
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